(出典:国立公文書館)

ニューオーリンズへの派遣が決まった時の辞令

これは、国立公文書館に保管されている農商務省の文書で、譲吉をニューオーリンズ万国博覧会に派遣するという辞令(写し)が書かれています。
この万博は、ルイジアナ地域からイギリスへの綿花の輸出が始まって100年を記念する国際博覧会として開催されており、「万国工業並綿百年期博覧会」と記載されています。
署名の「農商務卿西郷従道」は、西郷隆盛の弟で、文部卿、陸軍卿、農商務卿などを歴任しました。
5月19日の日付で通達されており、譲吉は、1884(明治17)年9月28日に、横浜港を出港しました。

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エピソード

03

万博と婚約編

明治時代(1884-1885)

譲吉31歳まで

イギリスから帰国した翌年、私は、アメリカ南部で開催される「ニューオーリンズ万国博覧会」に主任事務官として派遣されることになりました。私を入れて3人がアメリカへ渡り、1年間滞在しました。

ニューオーリンズ万博は、1884年12月から1885年5月までの開催です。
ある日、会場に「リン鉱石」がピラミッド型に展示されているのを見た時、リン鉱石から人造肥料を製造しているのを、イギリス留学時に見学したことを思い出しました。
実は、それまで人工の肥料はなく、農業の生産性を高めるためにも、人造肥料は欠かせませんでした。

私は、リン鉱石の採掘現場を見学し、リン酸肥料の製造工程を詳しく調査しました。そして、過リン酸石灰6トン、リン鉱石4トンを自費で買い付け、日本に持ち帰りました。

この時、私は、下宿していたヒッチ家の令嬢キャロラインとお互いにひかれあい、婚約します。しかし、博覧会終了後、私は日本に帰国しなければならず、キャロラインを置いて帰国の途につきました。彼女は、18歳でした。

ニューオーリンズ万国産業博覧会の会場
出典:The Times-Picayune Archive
譲吉たちは、横浜港を出発し、サンフランシスコに着。前年、開通したばかりのサザン・パシフィック鉄道に乗り継いで、ニューオーリンズに向かった。