「商工とやま」H17年6月号

発掘から解明する富山城 其の七 最終回

◆ 佐々成政の活躍した城

富山市埋蔵文化財センター 専門学芸員 古川 知明


 佐々成政が富山城主神保長住の後見として、信長により越中に派遣されたのは天正9(1581)年です。成政はその後5年の間に越中各地を転戦し、越後上杉勢を駆逐して、越中支配を確実なものとしました。当初成政が城主にならなかったのは、越中守護代の血筋を引く神保長住を立てることにより、各地の有力武将の反抗を抑える政略でした。

 成政は富山城を本拠地にしていましたが、その頃に大きな改修をした痕跡は、発掘調査の結果でも明らかになっていません。成政は越中に入る前、越前小丸城(福井県武生市)の城主として築城を指揮した実績があり、築城技術に長けていたと思われます。富山城に改修の記録を残さなかった理由は、戦略的に多忙を極めていたためとされますが、一方で金銀鉱山開発が不調で資金調達が十分ではなかったためとも考えられます。


■成政と関わりの深い水橋の小出城

 県内では、成政が関わった城の発掘が相次いでいます。その中で最も戦略的に重要な城の一つに富山市水橋の小出城があります。江戸時代の記録には約50m四方の規模とありますが、平成12年から富山市埋蔵文化財センターが実施した発掘調査で、幅7〜10mの堀跡が発見され、城全体の大きさは東西80m以上、南北200m以上に及ぶことがわかりました。これは成政の本拠地、総本山である富山城の中心的な廓(本丸・西の丸)に匹敵するほど大きな規模です。

 成政は天正9年、越後上杉勢の越中侵攻に対抗して、安土から越中小出城に出兵し、上杉勢を小出城から撤退させました。この戦は成政が越中での最初の戦であり、そこでの勝利は、信長の脅威であった上杉氏の越中進出を食い止めたことで重要な意味を持っていました。この戦の跡は発掘調査によっても確かめられています。

 小出城からは数多くの漆器椀・皿のほか、鉄砲玉、焼け焦げた木や石等が出土しました。このことは、鉄砲を使用した合戦が繰り広げられ、また城が焼討ちされたことを物語っています。このほか土製の鉄砲玉があります。殺傷能力はなく、音で馬を驚かせ武将を落馬させる効果を狙ったといわれ、さまざまな戦法が使われたことがわかりました。


■成政が攻めた上市町弓庄城

 成政が直接陣頭指揮して攻めた城には、上杉方の土肥政繁が城主であった上市町弓庄城があります。ここでは建物や堀が集中的に整備され、また鉄砲玉や鎧・小柄等の出土品の存在は、戦を前にして城の防備を固めたことや、戦いのさまを具体的に知ることができ、ありありとした緊張感が伝わってきます。


■成政の研究は今後も続く

 佐々成政は、信長に派遣され、数年をかけて越中平定という大事業を達成したにもかかわらず、城主として安泰であったのはわずか1年余りの短い期間にしかすぎませんでした。それゆえ、その足跡を考古学の発掘によって証明することは極めて困難です。

 今後富山城や各地の城の発掘調査が進めば、成政の生きざまを知る新たな資料が出てくるかもしれません。

 さて、富山城址公園では、富山市と富山商工会議所を中心として、成政を顕彰する「佐々成政記念館(仮称)」の建設計画が着々と進められています。これまでの連載で、富山城に関わる最新の調査成果について報告してきましたが、佐々成政の実像はまだ不明な点が多くあります。この記念館に多くの資料が集まり、成政研究が進展することが望まれます。

(了)


■お問い合わせ先
 富山市埋蔵文化財センター TEL076-442-4246

 昨年11月号から始まった「発掘から解明する富山城」は今回が最終回です。ご愛読いただきありがとうございました。富山市の発掘調査により解明が進められている「富山城」は、郷土の価値資源の1つであります。皆さんもこの連載を機に「富山城」について大いに語り合っていただければと思います。



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