「商工とやま」平成18年10月号

特集 富山城の歴史とその魅力を再発見! 
     〜知られざる「富山城ものがたり」〜

 昨年11月に、中世以来の富山城の歴史を紹介する博物館としてリニューアルオープンした富山市郷土博物館(富山城)。現在の天守閣は、戦後復興を記念して建設されたものです。
 では、もともとの富山城とはどんなお城だったのでしょうか。富山市のシンボルでありながら、意外と知らない方も多いのではないでしょうか。富山城の歴史と知られざる物語を探しに、新しくなった郷土博物館へ出かけてみませんか。

■現在の「富山城」は、戦災復興のシンボル

 昭和29年に、戦災復興事業の完了を機に、富山城址一帯で富山産業博覧会が開催されました。それを記念して建てられたのが富山城天守閣です。彦根城や犬山城など、全国の現存天守を参考にデザインされました。会期中は「美の殿堂」と名づけられた天守閣の最上階からは富山市街や立山連峰が一望できたため、多くの人で賑わったといいます。「富山城」は富山市の戦災復興のシンボルだったのです。

 その後は、富山市郷土博物館として郷土の歴史や文化を紹介する施設となり、多くの人々に親しまれてきました。平成15年から約2年半をかけて耐震改修工事が行なわれ、それに伴い館内の展示も一新されました。富山城の歴史を詳しく紹介する博物館として、昨年の11月にリニューアルオープンしたのです。

 また、郷土博物館(富山城)は、戦災復興期を代表する建築物として平成16年に国の登録有形文化財に登録されています。


■富山城のはじまり
400年以上にわたる城の歴史を明らかにしていく新展示

 郷土博物館では、中世の富山城の築城から明治時代以降の城址の変遷まで、400年以上にわたるその歴史が詳しく紹介されています。「富山城ものがたり」というテーマのもと、視覚的なディスプレイによって、面白くわかりやすい展示がされていて、来館者にも好評です。

 館内に入ってみるとまず最初に、現在も発掘調査が進められている富山城研究の最新情報が展示されています。そして、遺構や出土物、地層の展示に続き、戦国時代に始まった富山城の成り立ちが紹介されています。大型スクリーンでは、戦国の動乱期の、越中を舞台にした勢力争いの変遷が次々と映し出されていきます。

 ところで、皆さんは最初に富山城を築いたのは、誰かご存じですか?これも一般にはあまり知られていないかもしれませんが、神保長職という越中の武将です。天文12年(1543)に長職が築いたのが富山城のはじまりです。しかし、そのお城がどんな姿をしていたのか、残念ながら絵図は残されていません。富山城址公園内では確認調査が行なわれていて、地下には戦国時代から江戸時代の遺構が残されていることがわかっています。調査範囲がまだ一部であることから、中世の富山城の姿や規模はまだまだ謎に包まれており、今後の調査に期待が寄せられています。


■博物館の外にも広がる興味

 一方、中世の越中では、数多くの城館が築かれていました。長職も富山城以外にも、領域内に多くの支城を設けていました。そして、呉羽山の白鳥城や婦中の安田城などは富山城の歴史と密接なつながりがあり、それらの城館は中世富山城を考える上で参考になっています。

 また、館内には武田信玄、上杉謙信、織田信長をはじめ、佐々成政、豊臣秀吉など富山城に関連した戦国武将の書状の原寸パネルが展示されています。さらに、戦国の動乱の中で次々と移り変わっていった勢力図がわかりやすく紹介されています。そして、県内各地に残る、上杉謙信や佐々成政ゆかりの地も写真パネルで見ることができます。

 「館内で展示を見るだけでなく、現在も市内や県内各地に残る富山城に関係のある史跡を訪ねてみれば、より深く富山城の歴史を知ることができ、興味深い体験をすることができますよ」と博物館学芸担当の浦畑さんはアドバイスして下さいました。


■江戸期の富山城を復元

 そして、館内展示の目玉となっているのは、江戸後期の富山城の復元模型です。模型と映像で、富山城の姿が目で見てわかる仕組みとなっています。また、富山前田家と近世の富山城の歴史についても詳しく紹介されています。

 文禄4年(1595)、前田利家は豊臣秀吉から富山城のある新川郡を与えられます。そして、慶長2年(1597)利家の嫡男利長が富山城に入城します。翌年、利長は家督相続のため金沢に移りますが、慶長10年(1605)に利長は隠居して、再び富山城に入ります。その際に大規模な改修が行なわれ、富山城は近世城郭として整備されたのです。しかし、慶長14年(1609)に大火により焼失し、利長は高岡城を築いて移ることになります。焼失後の富山城は再建されることなく、元和元年(1615)に一国一城令により廃城となってしまいました。


■前田利次による富山城の本格的整備

 その後、寛永16年(1639)に、加賀藩より10万石を分与され富山藩の初代藩主となったのが前田利次です。利次は幕府から許可を得て、本格的な城の整備にとりかかりました。

 近世富山城の特徴は、内堀・外堀の二重の堀によって囲まれた平城で、本丸は神通川の自然堤防の少し高い場所に位置していました。当時の神通川は現在の松川と県庁のあたりを流れていましたから、川を背にした形で城が築かれていたわけです。西と北は神通川、東はいたち川、南は四ツ谷川を外郭防御線とし、南東部には寺町を配置して守りを固めていました。石垣は本丸と二之丸の枡形門だけに用いられ、土塁が主体の城で、天守は建てられませんでした。



■江戸時代の富山城は大きかった

 現在の城址公園だけみると、富山城は小さく感じてしまうかもしれません。しかし、江戸時代に整備された富山城は高岡城よりも大きく、決して小さな城ではなかったといえます。公園の周辺は今では市街地となっているためその規模は分かりにくいのですが、現在の城址公園は元の城域の6分の1程度しかないと推測されています。

 市街地での発掘調査は不可能ですが、城址公園内には今も石垣や土塁、堀などの遺構が残っています。石垣の巨大な「鏡石」や、石に付けられたさまざまな刻印などを実際に見ることができます。


■豪華な隠居所・千歳御殿

 そして、ひときわ興味を引くのが、富山藩10代藩主前田利保が、嘉永2年(1849)に完成させた千歳御殿です。江戸期には富山城内に多くの建物が建てられましたが、千歳御殿はそのなかでも最も豪華で個性的だといわれています。学芸に秀でた利保が隠居所として建てた屋敷で、当時の江戸大名屋敷に見られる流行が取り入れられていたそうです。

 能楽に親しんでいた利保は、千歳御殿にも能舞台を設けました。南北に細い敷地に能舞台を中心に建てられたため、非常に複雑な構造となっています。また、内部の装飾にも贅を尽くしていたことが記録に残っています。しかし、完成からわずか6年後の安政2年(1855)に、大火によって焼失してしまいました。その後すぐに再建されましたが、能舞台もない簡素なものだったそうです。

 千歳御殿本体は見ることができませんが、千歳御門(埋門)は市内に移築され現在も残っています。初代の千歳御殿建築の際に建てられ、大火での焼失も免れたそうです。建築様式は旧加賀藩御守殿門(現・東京大学赤門)と共通していて、館内では写真パネルで紹介されています。実は千歳御門は再移築が決まっており、来年には城址公園内で見ることができます。また、千歳御殿があった場所は現在の桜木町のあたりです。千歳御殿の敷地には桜が多く植えられていたことから、それにちなんで「桜木町」と名付けられたとも言われています。


■現代に残る富山城の遺構
街に出て、富山城の歴史を再発見しよう

 明治6年(1873)の廃城令により富山城は廃城となり、多くの建物は取り壊されました。

 廃城の際に、民間に払い下げられた建築物のいくつかは現在も市内に残っていて、展示では写真とともに紹介されています。館内で歴史を学んだ後は、富山城や城下の武家屋敷に関わる貴重な遺構を、実際に訪ねてみませんか。当時の富山城の面影を知ることができるとともに、これまで知らなかった富山城をめぐる物語が、私たちの暮らしのすぐそばで、今も生き続けていることが実感できるはずです。


■富山には、まだまだ多くの物語がある

 当所は「富山市価値創造プロジェクト」を推進し、市民参加による価値資源の共有と情報発信活動などさまざまな事業に取り組んでいます。今回ご紹介した富山市郷土博物館も、街の新たな観光資源の再発見につながっていくものと期待されます。富山城の歴史に新たな方向から光を当てる郷土博物館を通して、富山に残るたくさんの史跡を訪ねてふるさとの歴史に親しみ、その価値を再発見してみませんか。

■富山市郷土博物館
「富山城ものがたり」をテーマに富山城の歴史を紹介するとともに、関連するミニ企画展を随時開催しています。
 富山市本丸1-62  TEL:076-432-7911
開館時間/9時〜17時(入館は16時30分まで)
休館日/月曜日(祝日を除く)、祝日の翌日(土・日曜を除く)、年末年始(12月28日〜1月4日)。なお、臨時の開館及び休館があります。
観覧料/一般210円、小中学生110円
幕末の富山藩を揺るがした三大事件を小説に

 財団法人富山市民文化事業団事務局長で、文芸同人誌「渤海」編集委員の佐多玲・本名・杉田欣次さんが、今年7月、時代小説集『名こそ武士』(桂書房)を出版し、話題となっています。
 物語のモチーフとなったのは、幕末の富山藩に実際に起きた三つの大事件です。開国に揺れていた幕末の日本にあって財政難や災害に苦しんでいた富山藩。そんな中、藩政改革に取り組みながらも失政に追い込まれた(1834年)家老蟹江監物、富山へ戻る道中で切腹した(1857年)江戸詰め家老富田兵部、そして若手藩士に登城の途中で暗殺された(1864年)家老山田嘉膳という三人の実在の家老を巡る物語です。
 「最初に取り組んだのは、本のタイトルにもなっている『名こそ武士』です。史実の一部を元にしていますが、もちろん独自の脚色を加え、小説としてさらに面白くするため、また、主人公の内面の必然性を高めるために、新たな物語を創作しています。」と、佐多さんは独自の視点で現代に蘇らせました。
 タイトルの『名こそ武士』は、山田嘉膳を暗殺した島田勝摩の実際の辞世の句が元になっています。

 思いやれ浮世は二十日夢のうち 後代にのこす 名こそ武士 

 25歳という若さで切腹した勝摩の一途な思いが、現代の私たちに鮮烈な印象で伝わってきます。小説でも、歴史に翻弄された一途な若者の熱き思いが活き活きと描かれています。
 この他に富田兵部の事件を題材にした『是非に及ばず』、蟹江監物の事件をテーマにした『社鼠を患えず』の二編と随筆が掲載されています。いずれも史実を丹念に調べた上で、小説として新しい生命を吹き込まれた郷土の物語です。ぜひ一度、読んでみてはいかがですか。そして、佐多さんはこれからも富山を舞台にした時代小説を順次発表される予定で、今後のご活躍がますます期待されます。

※佐多さんの小説に登場する富田兵部と山田嘉膳の屋敷の門は、現在も市内に移設されて残っており、郷土博物館でも紹介されています。

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