「商工とやま」平成18年12月号

特集
街なかで、あったまろう。 〜癒しと楽しさいっぱいの、街なかの銭湯〜

 古くから、地域のふれあいの場として、そして、子どものしつけの場としても大切な場所だった銭湯。数は減っても、富山市内には、まだまだ元気な銭湯がたくさんあります。銭湯は、世代や職業など、様々な垣根をこえて、まさに裸の付き合いができる場所。高齢化がすすむなか、街なか活性化の拠点としても期待されています。癒しと楽しさに満ちた銭湯で、心も体もあったまってみませんか。

■銭湯のはじまりとは

 「風呂」は、「室」が変化したもので、風呂はもともと蒸し風呂、今でいうサウナがはじまりでした。そして、「銭湯」という表記が初めて登場したのは1352年の京都八坂神社の記録で残っており、近くの寺が銭をとる「銭湯風呂」を始めたと書かれていたそうです。銭湯の語源もこの説と、「蒸し風呂」に対しての「洗湯」と呼ぶ説など、諸説があります。湯舟にたっぷりお湯をはって、肩までつかる現在のようなお風呂のスタイルのはじまりは、江戸時代になってからのことです。


■かけそばの料金で

 江戸中期からは、富山城下にも銭湯が出現し、当時から「かけそば」程度の料金で入浴することができました。都道府県によって料金は違いますが、現在の県内の銭湯料金は、物価統制令(今もあるのは驚きです)によって大人が370円以下と決められています。現代の今も変わらず「かけそば」程度の安い料金で、たっぷりのお湯を楽しむことができるのです。


■「お風呂屋さん」は、今も昔も、憩いと交流の場

 富山県公衆浴場業生活衛生同業組合(以下県公衆浴場組合)に加盟している銭湯は、現在127軒。富山市内では、41軒です。かつて、昭和30年代には、県内全体では320軒以上の「お風呂屋さん」があったといいます。しかし、家庭風呂の普及やライフスタイルの変化、後継者問題などによって、地域の人々のコミュニケーションの場であった銭湯は減少しています。さらに、近年ではスーパー銭湯の進出などもあり、全国的に見ても「銭湯ばなれ」が進んでいるのも事実です。

 そのような中でも、富山県内の各銭湯では独自の工夫やさまざまなイベントなどが行なわれています。そして、地域の福祉に貢献し、子どもからお年寄りまでが、世代間交流を深める場として、気軽に銭湯を利用してもらおうという取り組みが始まっています。

 県公衆浴場組合の事務局長であり、長年富山の銭湯を見守り続けてきた金盛裕子さんは、「風呂屋はかつて、世代をこえた人と人との温かなふれあいがあった場所です。現在、私たちが取り組んでいる様々な企画イベントを通して、昔から銭湯をよく知る方はその良さを再確認してもらい、若い人達には、銭湯の新しい魅力を発見していただけたらと思います。これだけの料金で、美容と健康に良く、気持ちもリラックス、リフレッシュできる施設はないと思います。清潔で、マイナスイオンたっぷりの銭湯を楽しんでいただき、今後も、より多くの皆さまに利用していただけたらと思います」と、街なかの銭湯に期待を寄せています。

 現在の銭湯には、サウナや薬湯、ジャグジーなど、さまざまな種類のお風呂を楽しめる施設が増えています。家庭風呂では味わえない、あたらしい魅力に溢れています。


■ユニークなイベントで、地域を活性化

 県公衆浴場組合では、平成14年から親子ふれあい入浴推進事業として、様々なイベントを開催してきました。毎月第3土曜日を「ハッピーサタデー」の日として、保護者同伴であれば小学生は無料となっています。銭湯縁日や敬老の日の高齢者・児童ふれあい入浴、もちつき大会、ゆず湯など、たくさんのイベントを実施しています。これは、銭湯での触れ合いを通して、異世代間の交流を進めようとする試みで、始められたものです。

 また、富山市の「高齢者ぬくもりの湯サロン」事業の一環としても、営業開始前の1〜2時間、脱衣所やロビーが開放され、多くのイベントが開催されています。なかでもヨガ教室やお坊さんの講話、カラオケ大会などが人気となっています。


■街なかにこそ、銭湯を

 中心部では新しいマンションの建設が進んでおり、高齢化が進む今後のことを考えると、交通が便利な街なかにこそ、もっと銭湯があるといいと思いませんか。例えば、「マンションの1階の小さな銭湯」があってもいいと思います。銭湯は、誰もが癒される、温かなふれあいの場になると思います。

 富山市が中心市街地活性化基本計画に掲げる「まちなか居住の推進」として、生鮮食料品などの商業施設のほか、医療施設・社会福祉施設・教育文化施設を含めた都市福利施設などの住環境の整備が進められていますが、その中で、地域のコミュニティの場として、また賑わい創出の拠点として、銭湯は一役を担える存在だと言えると思います。

 当所では、「富山市価値創造プロジェクト」を推進し、今ある「価値」を評価し、活気ある街づくりのために必要な、様々な仕組みづくりに取り組んでいます。

 今回ご紹介した公衆浴場の取り組みも、地域の文化やコミュニティの見直し、人と人との交流や街なかの賑わい創出、さらに、遊び心ある暮らしに向けて、今後の活動が大いに期待されます。当所でも、この活動を支援し、魅力ある街なかの創造に取り組んでいきます。

 皆さんも、仕事帰りや休日に、街なかの銭湯へ出掛けてみませんか。身体の芯から温まった風呂あがりに、冷たいコーヒー牛乳を飲めば、家庭風呂では味わえない爽快感を、きっと再び味わうことができるはずです。


■いろんな楽しみ方がある、街なかの銭湯へ

 最近の燃料費の高騰などで、経営も大変な中、それぞれの銭湯は、独自の様々な工夫や努力を続けています。そして、街なかの銭湯は、地域の人と人を結ぶ交流の場として、いま再び、あらたなスタート地点に立っています。

 今回は3つの銭湯をご紹介します。

登山客からも人気の、昔ながらの、街なか銭湯の代名詞。
≪観 音 湯≫
 飲食店や商業ビルがひしめく富山駅前の繁華街に、ひと際目を引く建物があります。それが、昔ながらの佇まいを見せている観音湯です。場所柄、県外からの登山客の利用も多く、富山の銭湯の代名詞とも言える存在です。観音湯の名前の由来は、大正から昭和初期にかけて別の経営者が開いていた銭湯の馬頭観音を受け継ぎ、祀ったことに因んで名付けられました。戦前の建物は戦争で焼けてしまい、ご主人の椎名吉喜さんが復員後の昭和21年に、現在の場所にバラックを建て復興。その後、昭和25年に、現在の建物が建てられました。
 昭和49年には改装したとのことですが、外観や内部は昭和レトロそのもの。入り口を通ると、ちょうど番台の後ろにあたる部分では、福助のタイルが出迎えてくれます。そして、番台の真上のお堂には、名前の由来である馬頭観音が祀られており、さらに、そのお堂を支える板の真下には、龍が彫られています。その他にも貫目で計る体重計や、大きな柱時計、昔ながらのマッサージ機など、思わず目を奪われるものばかり。時を遡ったような観音湯で、日頃の疲れを癒してみませんか。


細部にわたる心配りと、日替わり薬湯。
≪亀 の 湯≫
 祖父の亀吉さん(故人)の名前にちなんで名づけられたという亀の湯。
 「どうやったらお客さんに喜んでもらえるか。370円でいかに楽しでもらうことができるか」を常に考えているという川村里美さん。母であり店主であった喜代江さんが今年9月に急逝。その遺志を受け継ぎ、細部にまで「こころ」配りをする毎日です。店内のいたるところに生花が飾られ、クラッシック音楽がさり気なく流れています。塩サウナや洋風露天ジャグジーの他、日替わりの薬湯も人気です。男湯と女湯が毎日入れ替わり、雰囲気の違ったお風呂を交互に楽しむことができます。いつも、清潔を第一に、毎日家族総出で、夜中に3時間近くかけて掃除をしているとのこと。
 「何をしていても、頭の中はお風呂のことばかり考えている」という里美さん。喜代江さんが生前に語っていた言葉が、ようやく分かってきたといいます。脱衣所には化粧水が置かれていたり、タオルやシャンプーなどの貸し出しサービスもあるなど、実に至れり尽せりの心配りです。会社帰りに、ふらっと立ち寄っても、もちろん大丈夫。銭湯のイメージを大きく覆す、サービス満点のお風呂屋さんです。


ユニークなイベント会場として、漫画の舞台として。
≪朝 日 湯≫
 昭和2年創業の朝日湯。3年前に改装し、休憩室と脱衣場を仕切る可動式のパーテーションを動かすと、広々としたイベントスペースが広がる仕組みとなりました。このスペースでは営業時間の前に、様々なイベントが定期的に無料で開催され、地域のたくさんの人が訪れています。
 これまでに、津軽三味線の演奏会をはじめ、落語独演会、童話朗読会、紅茶を楽しむ会、日本酒についての話や試飲、さらに、日本酒風呂に入る企画など、毎回ユニークな試みが話題となっています。
 経営者の小林ゆかりさんは、藤谷みつるのペンネームで、かつてプロの漫画家としても活躍。朝日湯での出来事をモチーフにした作品『フロ屋のおきて』(集英社)には、小林さん自身が経験した、お風呂にまつわるエピソードが、楽しく描かれています。残念ながらこの作品は現在書店では販売されていませんが、朝日湯の休憩室の本棚に単行本が並んでいます。ぜひ一度、朝日湯のお風呂に入って、その後、のんびりと休憩しながら、漫画を読んでみませんか。
 朝日湯の薬湯は、よもぎ、ラベンダー、ラ・フランスなど、曜日ごとに種類が変わるので、毎日出掛けても、違ったお湯を楽しむことができます。

◆銭湯こぼれ話
東京に富山出身の銭湯経営者が多い理由とは

 江戸時代中期、江戸城下に銭湯が急速に増えました。それは幕府の命令によって、一町内に一軒ずつ銭湯が作られるようになったから。火事の際の火消しに湯舟の湯を使うためだったといいます。そして、経営者は越中、加賀、能登、越前出身者で6割を占めたとか。その中でも越中出身者はその半数を占めました。今でも東京では、その3代目〜6代目が経営している銭湯が多いと言われています。

 また、富山のなかでも、県東部出身者が多い理由として、黒部川、常願川など「暴れ川」が多い地域では、農地も二男坊や三男坊に分け与えるほどもなく、「家督は長男が継ぐ」という考えが強かったためだとか。手間がかかり、夜遅くまでのきつい仕事も苦にしない勤勉な越中人にとっては、江戸で一旗揚げるための仕事として、銭湯経営は最適だったのかもしれません。

 そういえば、故久世光彦氏演出で、東京下町の銭湯が舞台のドラマ「時間ですよ」のおかみさん(森光子)も、富山出身という設定でした。  現在の富山市内の銭湯の経営者の出身地は、中新川郡や五箇山地方出身の方が多いとのことです。

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