「商工とやま」平成19年6月号
特集 薬都・とやま
300年以上の歴史と価値を再発見しよう!
其の二 売薬さんと近代産業への礎

 富山の売薬さんの歴史をたどるシリーズの第2回目は、売薬さんの旅先での様子や、富山の産業基盤を形成していった歴史について振り返ります。
 富山ならではの風土に裏打ちされた、誠実さ、粘り強さという気風の一方で、進取の気性に富んだ売薬さんのたちの仕事ぶりは、現代の私たちにも大いに参考になる点がありそうです。


■旅先での売薬さん

 全国の人々に親しまれ、300年以上の歴史を誇る富山売薬。その売薬さんは「売薬さん」と呼ばれており、越中富山の代名詞ともなっています。

 売薬さんの旅先での服装は、菅笠に「かっぱ」、わらじに「けはん(脚半(きゃはん))」、きちんと角帯をしめた質素で堅実な身なりでした。そして、柳行李を5つ重ねたものを黒い木綿の大風呂敷で包み、背負っていくのが一般的でした。行李は下が最も大きく、上になるにつれて小さくなり、上から2段目には売薬版画などの進物が、最上段には懸場帳が入れられていました。一番下の大きな行李の中は桐の板で仕切られ、薬が種類別に整然と並べられていました。行李には一日の行商に必要な薬などが詰められていて、重さは10キロ以上にもなりました。現金を持ち歩くため、矢立て(筆と墨壷を組み合わせた携帯用の筆記用具)は、時に護身用の道具にもなりました。明治期になると、片手に「こうもりかさ」を持ち、自転車が利用されるようになると、自転車の荷台に行李を載せて行商に出向きました。

 また、旅先での諸藩の信用を確かなものにし、商売を継続、発展させていくため、旅先での生活態度については仲間組によって厳しい規定が設けられていました。争いごとや売薬代金の請求による訴えは起こしてはならないこと、旅先の国法を遵守すること、分不相応に着飾ることや遊興、酒宴を慎むことなどです。さらに、病気や困難の際には、同業者同士の強い結束で、お互いに助け合いました。いずれも、故郷を遠く離れた旅先で、信用を築き、富山売薬を長く守っていくための大切な規範でした。

 売薬さんの意志の強さや粘り強さ、質実さは、まさに富山という風土が生み出した気質そのものであり、現代の富山の県民性にも通じるものがあるのではないでしょうか。


■「売薬」を越えた交流

 何代にもわたって続けられる得意先と売薬さんの交流は、親戚同士のような親しいものとなりました。時には結婚相手の世話をしたり、宴席に招かれた時には、義太夫や「おわら」などを披露することもありました。富山市郷土博物館の坂森幹浩主査学芸員によると、「江戸後期から明治、大正まで、富山では芝居が好まれ浄瑠璃がとても盛んでした。職人や売薬さんなどの間では、芸事や遊びの文化が息づいていたのです。売薬さんは役者絵をただ配るだけでなく、「一ロ浄瑠璃」などで、浄瑠璃のさわりを聞かせることもありました。これは形のない進物の一つで、それによって、売薬版画の魅力もさらに高まっていきました。残念ながら、度重なる災害や、何よりも娯楽の変化によって、富山の浄瑠璃や芝居の文化は、その後、途絶えた」とのことでした。

 このような芸事文化の交流の他にも、八尾や井波の蚕種紙を旅先で売ったり、庄川の種もみを全国に広めたり、馬耕などの農業技術を伝えるなど、売薬さんは日本各地の人々にさまざまな情報や技術を伝えていきました。


■懸場帳(かけばちょう)と寺子屋がつくる素地

 先用後利という販売システムにおいて、最も重要なものが懸場帳でした。訪問した日、配置した薬の種類や数、売上金額などを得意先ごとに記帳した懸場帳は、売薬さんの最大の財産となっていました。江戸時代からすでに、売買の対象とされていました。

 そして、懸場帳の管理に必要な、読み、書き、そろばん、それに、得意先の信用を得るためのきちんとした服装や礼儀作法を身につけるため、富山の寺子屋では売薬さんの子弟の教育が熱心に行われていました。中でも、「臨池居(りんちきょ)(後の小西屋)」(1766〜1899)は北陸随一と言われた富山の寺子屋で、売薬さんになろうという子どもたちの、重要な教育の場となっていました。明治23年(1890)頃の臨地居の児童数は男子600名、女子200名を数えていました。そのうち300名は、近隣の村から入塾して寄宿していたという大規模なものでした。ここでは、売薬に必要な薬名なども教えていたといいます。寺子屋は富山売薬の発展に欠かせない教育機関であり、すぐれた養成機関でもあったのです。

 また、売薬さんとのつながりのなかで、能書家である寺子屋の先生が、薬の効能書などの下書きを書くこともあったようです。薬袋などの試し刷りのなかに、「小西屋」関係者の名を見ることができます。


■薬作りと関連産業の発展

 売薬さんたちは旅先から戻ると、すぐに薬作りを始めました。家の一部に作業場を設け、小規模で手工業的な製薬を行っていました。薬種問屋から原料薬を買い入れて調合し、次の行商に出掛ける数ヶ月の間に集中して薬を作っていたといいます。薬種問屋も製薬を行い、売薬さんに薬を卸売りしていましたが、主として、それぞれの売薬さんが製薬していました。製薬と販売が明確に分離されたのは明治時代以降のことです。

 丸薬作りの場合には、薬種を乾燥させ、きざみ、すりつぶし、練り合わせ、製丸し、包装して仕上げるといった工程があります。家族や使用人、日雇いの他、丸薬師などの熟練工も加わって薬作りを行いました。

 売薬業の発展に伴い、さまざまな関連産業が発展します。薬種問屋はもちろんのこと、飴屋、袋屋、紙屋、現在の「ますのすし」にも使われている曲物(まげもの)や桐箱のような指物(さしもの)などの容器、他に袋の印刷につかう版木を彫る彫師など、さまざまな産業が発展していきました。現在の富山でも盛んな印刷業やパッケージデザイン、さらにアルミ容器やガラスやプラスチック容器など産業発展のルーツが、富山売薬にあるのです。


■売薬印紙税による打撃と製薬会社のはじまり

 しかし、明治に入ると、明治政府は西洋医学に対して、売薬を「まがいもの」のように捉え、規制を強めていきます。漢方から洋薬への移行を促進し、製造と販売を分離することで薬の品質を高めるため、薬事法制が整備されていきました。そして、明治15年(1882)には「売薬印紙税」が導入され、富山売薬は一時期大打撃を受けることになります。この政府の方針に対応して、より良質な医薬品製造を行うため、売薬業者は共同で次々と製薬会社を設立していきました。

 明治9年(1876)には売薬業者の共同調剤工場として廣貫堂が設立され、大きな役割を果していきました。今日の医薬品メーカーの元となる組織が、この時代につくられていったのです。そして、薬剤師を養成するための薬学校も明治26年に設立されました。一時困難に陥っていた売薬業でしたが、この頃になると苦境を乗り越えていきます。

 丸薬機の開発など製薬技術が改良され、薬の大量生産の時代となり、コストの削減にもつながっていきました。薬づくりはそれまでの売薬さんではなく、製薬会社によって行われるようになっていきます。


■売薬資本を近代産業へつなげる

 長年にわたって全国を回り知識、見聞を広め、資本を貯えていった売薬業者たち。先見性に富み、進取の気質を持っていた彼らは、明治維新後、近代産業への投資をいち早く始め、新しい基幹産業を興していきました。売薬業者たちは、製薬会社をはじめとして、銀行、電力、紡績、印刷、容器、出版、製紙などの会社設立に関わり、多くの資本を投入していったのです。

 明治11年(1878)には、北陸銀行の前身となる富山第百二十三国立銀行が設立されました。5人の役員のうち、副頭取の密田林蔵と取締役の中田清兵衛の2人の売薬業者が、実質的な資本提供者でした。全国で相次ぎ設立された銀行の役員のほとんどが士族だったのに対して、富山では資本提供者が売薬業者という、まれなケースとなっています。

 また、薬種商の初代金岡又左衛門は、明治30年(1897)に北陸電力の前身である富山電燈会社を設立しています。北陸初の水力発電所である大久保発電所を建設し、電灯用電力を送電しました。県内ではその後、地元資本、県外大手資本、県営の三者によって、急流河川を利用した電源開発が進められ、昭和初期には全国最大の電力供給県となりました。安い電力を生かし、農業県から工業県へと大きく飛躍する礎を作ったのです。

 さらに、明治35年(1902)には、現在の富山信用金庫の前身である富山売薬信用組合が設立されています。売薬業に必要な資金の貸付や、預貯金の便宜を図る目的でした。中田清兵衛、密田林蔵など、15名の大手売薬業者が設立発起人となり、多くの売薬業者の経済基盤を支えました。


■現代の売薬さん

 今日の富山の生活や産業の基礎を形作った売薬さんたち。富山県薬業連合会副会長で、富山県薬業配置部会連合会会長の槻(けやき)義則さんに、現代の売薬さんのエピソードや売薬さんの誇りについてお話を伺いました。

 「高校卒業後、東京でサラリーマンとして働いていたのですが、父も叔父たちも売薬業を営んでいたため、父の跡を継ぐことになりました。配置先は新潟の魚沼や西蒲原郡の弥彦村などの山間地です。私が売薬業を始めた昭和40年代には車で回る人は2〜3人しかいませんでした。車の免許は持っていたのですが、約25年ほどの間、ずっとバイクを使っていました。昭和49年には十日町に会社を設立し、社員は現地採用するようになり、今では車で年に3回ほど得意先へ伺います。山間地の農家の方は、かつては年に1度、薬屋が来ることを本当に楽しみにして下さっていました。昭和60年頃までは、得意先泊りといって、昼にごはんを食べる家、夜に泊めてもらう家が決まっていました。今でも、5軒ほど、1泊する農家があります。お客様からは『富山さん』とか、加賀百万石の分家としての富山藩ということで『加賀医者』と呼ばれています。何十年もの付き合いですから、まさに家族のような人間同士の付き合いです。ですが、そんな中でも身なりや礼儀作法には気を配っています。隣の家のことをあれこれ話さないことも含め、信用が第一ですし、謙虚さや思いやりも大切です。それぞれの業者が全国各地で、富山の文化を誇りを持って各家庭にお届けしているのです」。


■「登録販売者」としての責任と未来

 現在、富山の売薬さんは約1800人で全国でトップとなっていますが、昭和36年頃のピーク時には、1万人以上の売薬さんがいました。現在の富山の売薬さんの平均年齢は65歳で、高齢化に伴って毎年減少傾向が続いています。現地居住が増えたり、企業化して社員の現地採用が多くなったことも減少の一因です。

 また、一般用医薬品の販売制度を見直すために、昨年、薬事法が改正されました。一般の医薬品をリスクの程度に応じて3つのグループに分け、その区分ごとの販売者を規定するものです。いまでは、コンビニやドラッグストアで商品がいつでも気軽に手に入るようになりましたが、専門家が購入者に適切な情報提供ができるようにするための制度改正です。薬剤師以外で販売に従事する専門家として、都道府県試験で資質を確認する「登録販売者」制度が新たに導入されます。

 「平成21年までに試験が実施される予定ですが、既存の配置薬業者は従来通り販売することができます。しかし、富山の配置薬業者もぜひ試験を受け、業界全体の質の向上と、お客様への的確な情報提供に努めていきたいと考えています。それによって、富山の薬をさらに多くの人にアピールしたいですね。責任を持って、しっかりとした資格のある業者を輩出していくことが、歴史と伝統ある富山の配置薬業者の未来にとって大事なことだと考えています」と槻さんは抱負を語って下さいました。



 配置用医薬品では生産額が全国トップの富山県。今後のさらなる発展を目指し、産官学が連携して、和漢薬やバイオテクノロジーなどの知識・技術を活かした、新しい医薬品の研究開発もすすめられています。
 富山売薬は、富山の産業基盤を築いただけでなく、現在でも多くの人々がいろんなかたちで、「薬」と結びついた仕事に従事しています。当所では、富山市価値創造プロジェクトを通して、「健やか薬都・とやま」の振興と発展、地域ブランドとしての「とやまのくすり」の情報発信に努めるとともに、富山大学が有する和漢薬に関する様々な資源が活用できる「富山大学街なかサテライト施設(仮称)」の中心市街地への誘致も検討していきます。暮らしに安心をもたらし、各地の人々との人情あふれる交流を生み出してきた富山売薬を、これからも応援していきます。


参考文献:『富山県薬業史 通史』(富山県)、『創業百年史』(北陸銀行)、『特別展 富山の売薬』(富山市教育委員会)ほか



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