「商工とやま」平成20年1月号
特集
 富山湾のぶりと暮らし ―過去と未来を結ぶ「ぶり街道」―

 越中と飛騨、さらに信州を結ぶ旧飛騨街道は「ぶり街道」と呼ばれ、古くからぶりをはじめ、人や物、情報や文化を運んだ道。最近では田中耕一氏、利根川進氏、小柴昌俊氏、そして白川英樹氏の4人の日本人ノーベル賞受賞者が、この街道沿線にゆかりがあることから「ノーベル街道」とも呼ばれています。

 富山の正月の食卓に欠かすことのできないぶりとぶり文化、ぶり街道の歴史について、あらためて振り返ってみたいと思います。

 

富山湾の冬の王者「寒ぶり」

 富山湾は、本州の中央に位置する日本海側最大級の湾であり、日本有数の漁場です。あいがめとも呼ばれる、沿岸から一気に深くなる千メートルを超える特徴的な海底谷を多く持ち、ブリ、シロエビ、ホタルイカをはじめ、多種多様な魚が集まる格好の漁場となっています。

 なかでも、富山湾の冬の王者「寒ぶり」は、今も昔も、富山の食卓を代表する味覚です。12月に入り、富山湾にぶり起こしと呼ばれる雷が鳴り響き海が荒れると、いよいよ本格的なぶり漁シーズンの到来です。


400年以上続く定置網漁

 九州沖で生まれ、北上した後、再び北の海から回遊してきたぶりは、能登半島の飛び出た地形によって富山湾へと入り込みます。この特徴ある漁場と、ぶりの通り道を知り尽くした漁師たちが仕掛けた定置網に、産卵前で脂ののりきった寒ぶりがかかります。

 富山湾は定置網漁の三大発祥地の一つでもあり、16世紀にはすでに定置網漁は始まっていたといいます。網はずっと海中にしかけられたままで、中はいけすのようになります。そのため、生きたままの新鮮なぶりを水揚げすることも、何日間か泳がせておくこともできます。現在でもぶり漁は富山湾全体の漁獲量の8割近くを占めていて、富山を代表する食のブランドとなっています。


日本一のぶり消費額

 富山市では、昆布と並んで、ぶりでも年間消費支出金額は日本一となっています。総務庁の家計調査年報、都道府県庁所在地別ランキング(平成16〜18年平均)でも、富山市が1位となっています。ぶりは、一年を通してよく食べられますが、最も美味しくなるこの時期、富山の家庭ではお正月の定番料理になります。


出世魚・ぶりの呼び名

 3月から6月頃に九州沖で産卵されたぶりの卵は、2日ほどで孵化し、藻などとともに日本海を北上します。成長にともなって群れで生活するようになり、夏にはツバイソ、コヅクラ、秋にはフクラギ、ハマチ、ガンド、そして冬には体長60センチ以上、重さ5キロ以上のぶりへと成長して富山湾へとやってきます。10キロ以上の大物は、生まれて数年たったぶりで、まさに王者の風格があります。


越中と飛騨、さらに信州を結ぶ「ぶり街道」

 富山湾で水揚げされた越中ぶりは出世魚として珍重され、旧飛騨街道を通り松本方面へと運ばれました。越中と飛騨、さらに信州を結ぶこの交易ルートは、江戸時代から「ぶり街道」と呼ばれています。

 飛騨高山への越中ぶりの出発点は東岩瀬です。東岩瀬で水揚げされたぶりは保存が効くよう塩ぶりにされ、竹籠に入れ高山までの約90キロの道のりを、牛や馬の背で峠を越えて運ばれました。ぶりなどの魚の他にも、越中からは大量の米・塩・鍋・釜・薬・菅笠などの生活必需品が飛騨へと運ばれていきました。


高山から先は「飛騨ぶり」に

 高山で越中ぶりを仕入れた松本や信州の魚商人たちは、そこからは「飛騨ぶり」として、松本、伊那、木曽地方へと運びました。飛騨や信州では大晦日から正月かけての年越しの膳を飾る「年取り魚」として、ぶりは欠かすことのできない御馳走でした。ぶりと白飯を食べないと年を取れないと信じていた人もいたほど、大切な食文化の一つとなっていました。

 高山から信州へのぶり街道は、野麦峠を越えて松本へと続く野麦街道が主要な道となっていました。ほかにも、塩尻峠を越えて諏訪地方へも、人の背で何日もかけてぶりは運ばれていきました。歩荷(ボッカ)たちは、時には自分の体重よりも重い荷を背負い、細く危険な難所をいくつも越えて、命がけで荷物を運びました。松本に着く頃には、塩ぶりは越中の浜値の約4倍の値段がつき、高価で買えない家では、塩サンマや塩イワシで代用したといいます。


高山の「塩ぶり市」

 江戸時代から旧暦の12月19日には毎年、高山でぶり市が開かれていました。そして、現在でも、高山市公設地方卸売市場では、毎年12月24日に塩ぶり市が開かれています。富山、石川、新潟などから塩ぶりが集められ、せりに掛けられます。「3万貫、4万貫」いう掛け声が場内に響き、次々と競り落とされていきます(ぶり市では一万貫は千円を表します)。時には、1キロあたり九千円。1匹9万円もの高値がつくこともあります。しかし、交通網や輸送手段が発達し生鮮食品がいつでも手に入る現代では、かつてほどの賑わいは見られません。ですが、歴史的な行事として、塩ぶり市の伝統は大切に受け継がれています。


東西を分ける、ぶり・さけ文化

 フォッサマグナを境に、西はぶり文化圏、東はさけ文化圏に分かれていると言われています。上越地方の高田や直江津ではさけの消費量が多く、同じ上越地方でも糸魚川はぶりの文化圏となっています。松本、諏訪、木曽谷、飛騨、美濃の東部、そして関西もぶりの文化圏です。他にも佐渡は、寒ぶりが穫れることや北前船による交流のため、ぶり文化圏の飛び地となっています。


賀茂神社のぶり分け神事

 射水市の旧下村の賀茂神社では、元旦に「ぶり分け神事」が行われます。平安時代から続く神事で、各地区から献上された塩ぶりを、氏子の代表が神様の前で、一本ずつ持ち上げて地区の名前を読み上げます。その後、切り身にされたぶりは全戸に配布され、家族でそのぶりを食べることで、家内安全、無病息災を祈ります。


 街道をゆけば、そこにはそれぞれの地域の歴史や文化があり、人々の生活、人情があります。

 当所では毎年12月に、『ぶり・ノーベル出世街道祭り』を実施しています。江戸時代から続く富山と飛騨、そして信州を結ぶ、ぶりを通した人や文化の交流をこれからも推進し、富山ならではのオリジナリティのある価値の創造に努めていきます。

 

豊かさの象徴だった、正月の塩ぶり
富山市議会議員 五本水産株式会社 代表取締役社長 五本 幸正さん

 現在、富山湾で穫れるぶりの約90%は関東へ生で出荷されています。暮らしの中のぶりということで言えば、結婚して初めての暮れには、嫁の実家から生ブリが一本届けられ、嫁ぎ先では半身に頭をつけて返す習慣がまだ残っていますね。ぶりの価格変動は大きく、たくさん穫れていれば3万、4万で買うことができますが、極端に漁がないときは、正月用のぶりで1本10万、15万円の高値になることもありますから大変ですね。

 道路が整備されず輸送手段が乏しかった時代、飛騨高山へは早くて3日かかって、保存が効く年越し用の塩ぶりが運ばれていきました。富山でも飛騨地方でも、大きな商家や地主などは、正月には挨拶にきた店子や小作の人達に酒を振る舞い、帰りには塩ぶりをもたせたものです。塩ぶりは豊かさの象徴でもあったのです。

 今では2時間半で高山へ行けるようになり、塩ぶりの需要は少なくなりました。また、辛口ではなく、甘塩の塩ぶりが好まれるようにもなりました。スーパーは1月1日から開いていますし、安い養殖ぶりが一年中食卓にのぼる時代です。ただし、刺身であれば、暮れの時期の10キロ以上のぶりは、やはり天然の方がおいしいのは確かですが。

 いまから58年前、私が12歳の頃、岩瀬の浜に、1日に2万〜2万5千本のぶりが3日続けて揚がったことがありました。父親からは学校へ行かなくていいから、ぶりの番をするようにと言われたものです。最近では岩瀬浜では1年で多くて2〜3千本くらいですから、ずいぶん少なくなりました。時代の変遷で、ぶりに対する人の意識も、正月の食卓も、大きく変わりましたね。



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