「商工とやま」平成20年6月号

特集
 富山売薬が育てた富山のものづくり
 −近代産業の基盤から先端産業まで−

◆その二◆ 売薬資本が富山の近代を拓く

 江戸時代からその名が全国に知られた富山売薬は、富山のものづくりを育てた揺りかごであり、これが基盤となって近代産業が大きく成長したといえます。前号では、売薬業そのものが総合的な産業で、江戸時代からいろいろな関連産業が発達したことを述べました。

 シリーズの第二回目は、明治時代に入って、売薬資本がほかの産業を興したり、影響を与えたりして、とやまのものづくりの根幹を築いた歴史について振り返ります。


■売薬資本が他産業へ進出

 江戸時代の富山売薬は、富山藩の統制下にありました。藩は売薬を保護する代償として御役金をかけ、藩の財政を補っていました。売薬で利益を得た何人かの町人はいましたが、蓄積した資本をほかに投じることは禁じられていました。また、富山の売薬行商人は、薬以外のものを扱うこと、旅先から商品を仕入れてくること、また、旅先に居住することなども厳しく禁じられていました。

 明治時代になると、これらの束縛が外れて、商売が自由にできるようになりました。売薬業者は金融機関をはじめ、水力発電・鉄道・各種製造業・出版や印刷・教育など、幅広く進出するようになりました。

 なお、売薬業者自身も時代のすう勢に対応するために製薬会社を設立しました。その中の代表格が廣貫堂でした。廣貫堂は明治9年(1876)、富山町の中田清兵衛ら5人が願い出て設立した製薬会社でした。社長に旧富山藩士で、元反魂(はんごんたん)丹役所の勘定方であった邨沢盛哉(むらさわせいさい)が就任しました。ほかにも多くの製薬会社が次々と設立されました。



■売薬資本が中心となってできた富山の銀行

 明治9年、国立銀行条例が改正されて、秩禄(ちつろく)公債(士族に交付された公債)なども銀行資金にすることが認められると、全国的に国立銀行設立の動きが活発になってきました。そして、富山でも有志の間で銀行設立の機運が盛り上がってきました。

 ただ富山がほかの地域と異なったのは、士族より売薬業者が熱心に銀行の設立を進めていったことです。それは、売薬業者にある程度の蓄積があったことと、金融に関する関心が高かったからではないでしょうか。


○富山第百二十三国立銀行の創業

 まず明治11年(1878)に、富山第百二十三国立銀行が資本金8万円で設立されました。その銀行の頭取は士族の前田則邦でしたが、5人の役員のうち2人が売薬業者でした。それは副頭取の密田林蔵と取締役の中田清兵衛であり、この2人が実質的な資本提供者でした。

 同行は、売薬業者の預金、貸出金が多く、廣貫堂に出張して廣貫堂の出納をすべて取り扱いました。当時の廣貫堂は、富山の製薬のほぼ3分の1を取り扱っていました。廣貫堂の出張所では、原料薬の仕入れ代金、従業員給料の支払い、売薬行商人の仕入れ代金など一切の金銭事務を担当しましたから、大きなお金が動きました。


○富山第十二国立銀行となる

 明治17年(1884)に富山第百二十三国立銀行は、金沢市にあった資本金20万円の金沢第十二国立銀行と合併し、富山第十二国立銀行として、本店を富山に置いて営業するようになりました。士族中心の金沢第十二銀行と売薬業者や地主などが中心の富山第百二十三銀行が合併することにより、大きく発展し、北陸地方や北海道に勢力を伸ばしました。

 富山第十二国立銀行は、明治30年に国立銀行としての満期を迎え、十二銀行と改称し、私立銀行になりました。このころ役員として経営に参画した売薬業者に、田中清太郎、松井伊平、阿部初太郎らがいました。


○そのほかの銀行経営

 売薬業者たちは、ほかにも銀行をつくりました。明治24年に千葉県にあった元国立銀行第四十七銀行を富山市に移転し、改組しました。ここにも、富山の売薬業者の宇津善吉、中田太七郎、金井久兵衛、金岡又左衛門、沢田金太郎などの富山市内の有力業者が経営陣に名を連ねました。

 明治26年に開業した富山貯蓄銀行、それに29年に設立した北陸商業銀行は、中田清兵衛と密田林蔵が関わってつくりました。

 また、明治30年に設置認可された水橋銀行でも多くの売薬業者が加わっていました。さらに売薬が町の中心産業となっていた四方町では、売薬業者だけで、明治44年に四方共益株式会社という貸金会社を組織し、大正元年(1912)に四方銀行となりました。


○北陸銀行の誕生

 時代の進展や経済の変動を受けて、銀行間の合併が進みました。昭和10年代の中ごろになると、富山市には十二銀行と富山銀行、高岡市を中心に高岡銀行、砺波地方に中越銀行が活動するという状況になりました。さらに第二次世界大戦に突入して、昭和18年(1943)、戦争遂行のための国策として「一県一行」の方針がとられ、十二・高岡・中越・富山の4銀行が合併し、北陸銀行が誕生することになりました。その初代頭取になったのは、十二銀行頭取で薬種商の中田清兵衛(第15代)でした。


■薬業者・中小企業のための金融機関の設立

 一般の銀行は、もちろん売薬業者に対して金融の道を開いていました。しかし、より多くの売薬業者が、気軽に金融を受けられる機関が必要になってきました。また、懸場帳のほかに担保を提供することができない零細業者には、とくに金融の道が求められていました。そこで、売薬業者の相互扶助を目的に、経営に必要な資金の貸付け、あるいは預貯金の便宜を図る金融機関として、明治35年(1902)に富山売薬信用組合が設立されました。設立発起人は、中田清兵衛、阿部初太郎、沢田金太郎、密田林蔵以下15名の大手売薬業者たちでした。

 昭和26年に「信用金庫法」施行に伴って、社名が富山信用金庫となり、売薬業者だけでなく、広く中小企業向けの金融機関として重要な役割を果たしています。現在、富山県内には、8金庫があります。


■売薬業者が水力電気を開発


○アーク灯の輝き

 北陸で初めて電気による明かりがともったのは、明治27年(1894)5月18日夜のことでした。富山市山王町の富山県物産陳列場で開かれた勧業博覧会場内で、人々はその輝きに驚きました。

 出品された電灯は、発電機を使ったアーク灯でした。出品したのは売薬業を営む密田家の分家の長男、密田孝吉で慶応義塾を卒業したばかりの青年でした。アーク灯は、日本で最初の電灯会社、東京電燈から借りたもので、会期中の点灯費用約350円は密田本家が援助したといわれています。


○北陸初の水力発電

 密田青年のアーク灯を見て事業化を考えたのは、薬種商の金岡又左衛門(初代)でした。密田が考えていた電灯事業は、東京や大阪で盛んに行われていた火力発電でした。しかし、金岡は京都市が琵琶湖疏水(そすい)で行っているような水力発電を提案し、密田も同意して水力発電の研究を進めました。

 発電地点は、大久保用水の塩地区(現富山市)と決められましたが、用水使用権で地主の了解を取り付けるのが大変でした。「発電はキリシタンの魔法だ」「エレキが用水に入ると毒が発生する」などと、反対が多く、最終的な了解を得るまでにおよそ1年半かかりました。

 資金の調達も大変でした。電灯会社の設立のための資本金として10万円の株式を募集しました。しかし、電気事業への理解者が少なく、結局、金岡の事業への熱意と手腕を信頼した、売薬業者を中心に何とか達成しました。設立発起人は11名で、そのうち8名が売薬業者でした。


○富山電燈、開業時の苦労

 明治30年(1897)11月、富山市に富山電燈株式会社が設立され、社長に金岡又左衛門、代務人(支配人)に密田孝吉が就任しました。

 富山電燈の出資の中心になったのは、金岡をはじめ中田清兵衛・密田兵蔵、邨沢金廣・松井伊兵衛・田中清次郎らの薬種商や売薬業の人々でした。また、十二銀行などの銀行資本もこの新しい事業に積極的に助力しました。

 大久保村塩地内(現富山市)に建設された大久保発電所は、アメリカのゼネラル・エレクトリック社製の発電機を設置し、最大出力は150キロワットでした。富山市に送電を開始したのは、明治32年4月、家庭電灯用でした。

 開業から1ヵ月後の電灯需要家数は957灯、4ヵ月後は1、510灯と順調に伸びていましたが、8月に富山市の大火に遭い、需要家の4分の3と社屋や送電施設を失ってしまいました。金岡は政治家の道を捨て電力事業に精励し、数年の後に再生を果たしました。さらに44年には、庵谷第一発電所を建設して、電灯から産業用電力へと開発を進めていったのでした。


○北陸電力を設立

 富山電燈は、明治40年に富山電気、昭和4年に日本海電気と改称し、その後各地にできた中小の電気会社を併合して地方の大手会社に成長しました。昭和16年、電力の国家管理が実施されたため、北陸3県の電力会社がまとまって北陸合同電気を発足させました。同26年、戦後の電力再編成時、北陸の重要性が認められて北陸電力が9電力会社の一つとして設立され、今日に至っています。


■そのほかの産業や育英事業にも売薬資本

 そのほか、売薬業者が直接関わった産業には、繊維、運輸、水産、保険、出版などがありました。

 繊維では、富山県模範工場・富山織物・富山県精錬などの役員を歴任した高桑安次郎の活躍がありました。また、田中清次郎は富山製紙会社の設立にかかわり、密田勘四郎は密田製糸場をつくり、それぞれの業界の発展に尽くしました。

 運輸関係では富山電気軌道、保険関係では北陸生命保険などに売薬業者が参画しました。優れた人材を世に出すために私財を投じたのは、初代金岡又左衛門でした。育英資金を出すにあたり、学生に何の条件も付けず、時折、会って話を聞いただけだといいます。育てられた学生は100名を超え、各界で活躍する人物を育てました。なかでも大審院院長になった細野長良、大島文雄富山大学名誉教授、成田政次元富山商工会議所会頭、岡島正平元富山市教育長ら多くの英才を輩出しています。


■富山売薬の基盤を支えた人材育成


○寺子屋の隆盛

 富山売薬では、売薬人教育が重視されてきました。「商は人なり」の言葉が伝えられています。富山の寺子屋では、読み、書き、算盤のほかに、行商地の地理・歴史、薬の知識を身につけるとともに、一般教養や徳育にも力が入れられました。

 代表的な寺子屋に、明和3年(1766)、富山西三番町に小西鳴鶴が開いた小西塾(臨池居(りんちきょ)ともいった)がありました。日本三大寺子屋といわれたほど大規模で、明治の学制頒布の後も廃止されず、明治32年まで続きました。

 幕末の小西塾は、小西有義が継いでおり、寺子が800人を数えたといわれます。従来の習字手習いのほかに算術や薬名帳、調合薬などの科目を加え、子弟が将来売薬業者として、自活していけることを目指していました。


○薬業の専門学校をつくる

 明治維新とともに、西洋医学や薬学が取り入れられ、和漢薬は一時壊滅の危機にさらされました。富山売薬は、生き残りを賭けて、西洋薬学の研究に取り組もうとしました。

 明治9年(1876)には廣貫堂が製薬会社として設立され、後継者の育成にも力を入れるようになりました。26年、富山市の補助金300円を基に、薬業者の寄付により、梅沢町に最初の薬学校、共立薬学校が創設されました。同校は30年に富山市立となりました。

 しかし、当初は入学者が少なく、富山市議会は学校が火災にあったのを機に廃校を決議しましたが、熱心な売薬業者たちが阻止、撤回させました。その後、売薬業者らの努力により明治40年に県立薬業学校、43年には県立薬業専門学校となり、さらに大正9年(1920)には官立薬学専門学校となって、薬剤師の養成を目的とする学校となりました。

 そこで売薬業者は、行商人の養成を行う薬学校の設立運動を行い、昭和2年(1927)、実業補修学校規定により、市立富山薬学校を柳町小学校内に開校しました。その後、14年には5年制の実業学校に昇格しました。


○高校の薬業科と富山大学薬学部

 第二次大戦後、昭和23年に新制高校がスタートし、県立富山北部高等学校と県立滑川高等学校に薬業科が設置され、33年には県立上市高等学校にも薬業科ができました。現在は富山北部高校のくすり・バイオ科として設置されています。

 一方、大学教育では、昭和24年に富山大学薬学部が発足し、50年には富山医科薬科大学となりました。53年には大学内に和漢薬研究所が設立されました。現在は大学の統合で再び富山大学薬学部となっています。


■あとがき

 今回は、売薬資本が富山県産業の基幹となる銀行や電力事業に進んでいったこと、および薬業教育や育英事業に努めたことを述べました。

 次号は最終回として、売薬がルーツとなって今日の富山の産業の特色となっている事業や業種を紹介します。



●筆者紹介
須 山 盛 彰(すやまもりあき)(富山県郷土史会常任理事)



薬業出身の三名家 ―中田家・密田家・金岡家―

 明治以降、蓄積した資本を近代産業に投じた代表的な薬業家が、右の三家です。それぞれの来歴や属する人々の活躍をみましょう。

 中田家は、般若村茶ノ木(現砺波市)の出身といわれ、富山ではじめての薬種店を開業しました。5代三郎右衛門が2代目藩主正甫公の御用商人となり、妙薬の奇応丸や熊参丸を創りました。6代清兵衛から代々清兵衛を名乗り、14代清兵衛が富山第百二十三国立銀行の副頭取になりました。15代清兵衛は、密田家9代林蔵の5男徳次郎が、中田家に入り襲名して家業を継ぎました。彼は先代のあと、十二銀行頭取となり、昭和18年には統合した北陸銀行の初代頭取に就任しました。長男の勇吉が、16代清兵衛を襲名し北陸銀行の頭取に就任、4男の幸吉が富山県知事を務めました。

 密田家は能登の出身で、寛文2年富山古寺町へ出て能登屋と称し、のちに売薬業を営みました。当主は代々、林蔵を名乗っていました。6代林蔵は富山売薬薩摩組の中心になって活躍しました。7代林蔵のとき、金融業(質屋)に携わりました。9代林蔵は越中売薬の近代化を企てて仲間と株式会社「廣貫堂」を設立しました。明治11年に富山第百二十三国立銀行の副頭取となり、10代林蔵は、富山貯蓄銀行を創立しました。また、金岡又左衛門と協力して富山で初めての水力電気を起こした密田孝吉は、分家の長男でした。

 金岡家は江戸末期より新庄町で、金剛寺屋とよばれる薬種商を営んでいました。金岡又左衛門(初代)は、はじめ政界を目指しましたが、のちに密田孝吉の助力を得て電力事業に打ち込み、成功の後は、鉄道・紡績・育英事業などに力を注ぎました。2代目又左衛門は、経済界で活躍し、現在の富山第一銀行の基をつくりました。3代目又左衛門は、薬学を修め、製薬会社、金融機関のトップとして活躍するかたわら、富山女子短期大学理事長を務めるなど、教育界に足跡を残しました。現在、金岡家の家業は3代又左衛門の係累により、富山国際大学・富山短期大学、株式会社インテック、株式会社チューリップテレビ、株式会社富山第一銀行などの経営に、幅広く活躍しています。

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