「商工とやま」平成20年6月号

特集
 富山売薬が育てた富山のものづくり
 −近代産業の基盤から先端産業まで−

◆その三◆ 富山売薬から発展した富山の産業

 富山売薬は、江戸時代から薬業および関連の産業とともに発展してきました。近代に入って、薬業資本が銀行や電力に投資されるようになり、また関連産業の中にも売薬以外の産業と関わって事業を発展させるケースが多くみられるようになりました。

 本号ではシリーズの最終回として、富山売薬に関連した各種の産業が現在どのように発展して、富山の産業の特色となっているかを探ってみたいと思います。


■ルーツは「売薬」にあり!?

 まずはクイズです。下の(1)〜(3)は、皆さん御馴染(おなじみ)の製品ですが、どこが売薬と関わりがあるかお分かりですか。


ヒントとして下にある売薬に関する品物、a〜cをご覧ください。どれがどれに対応するでしょうか、考えてください。


それでは答え―。

 (1)は「富山ますのすし」のパッケージで、その歩みをさかのぼるとbの薬函や薬袋にたどり着きます。

 (2)は点滴液容器ですが、このメーカーは戦前から薬の瓶(びん)を造っていました。ですからaのガラス製の薬瓶に対応します。

 (3)は缶ビールの缶で、このメーカーは世界で初めてビール缶を実用化しました。このメーカーの創業時の製品は、cの金属製の薬容器でした。

このように現在は、薬と関係なく、広く使われている品物で、実は売薬関連の産業から発展してできたものが、富山には数多くあります。このことが、富山の産業の特色となっているといえます。



■富山売薬が育てた富山の産業

 富山売薬の生産や配置販売のピークの時期は、国内売薬では昭和の初め頃、海外売薬では少し遅れて昭和15年頃でした。それ以降は戦争の時代となり、戦後の配置売薬は復興を果たしましたが、戦前の水準に戻ることはありませんでした。

 しかし、富山売薬やその関連産業の技術や資本は、いわゆる「売薬」以外の分野で次々に開花し、新たに発展していきました。その概況は、次ページの〈模式図〉「富山売薬が育てた富山の産業」(図1)にまとめてみました。


(図/富山県郷土史会常任理事 須山盛彰氏)

 大まかにいって、製薬の分野では配置用医薬品の生産割合は減ったけれども、医薬品全体としては着実に生産が伸びて全国第8位の生産県となっています。これは医療用や薬局・薬店用の一般医薬品および医薬原料や中間体と呼ばれる医薬品の生産が盛んだからです。

 また容器や包装の分野では、いくつかの新しい産業が創出されたといってもよいでしょう。それらは、印刷関係から発展した印刷紙器、パッケージ産業、金属容器から発展したアルミ缶・アルミチューブ製造業、薬瓶製造から発展したガラス容器やプラスチック容器製造や充填・包装の事業に進んでいます。

 このほか、前号までに記した銀行、電気を中心とした企業や薬業教育に加えて、時代の先端を行くIT産業も売薬資本の流れを汲む企業として活躍しています。



■売薬の歩みと配置用医薬品製造

 明治期までの製薬は、そのほとんどが配置売薬のためのものでした。明治9年(1876)に創業した富山廣貫堂も売薬業者によって設立され、大正3年、株式会社に改組し、現社名となりました。昭和19年に国策により富山合同製薬・富山薬剤・富山県製薬を合併しました。

 廣貫堂のほか、(株)内外薬品など中小の製薬会社が設立されました。太平洋戦争時に入って企業合同が行われ、昭和17年には11社合同による富山県統制製薬(株)が創設され、19年には第一薬品工業(株)となりました。廣貫堂も19年に合同製薬など3社を吸収合併しました。

 配置販売業、いわゆる「売薬さん」は、かぜ薬・痛み止め・胃ぐすり・目薬、その他の家庭薬を携えて、全国各地を回りました。明治末から大正、昭和戦前にかけて、1万人前後の人々が全国を行商し、昭和10年代には、台湾・中国・朝鮮・樺太などの海外売薬も盛んでした。

 戦中・戦後の混乱と物資不足による衰退から脱したのは昭和20年代後半でした。高度成長期には配置従業者数も1万人を超え、36年には戦後最高の1万1685人となりましたが、45年以降は急速に減少しました。薬局・薬店の薬との競争により需要の減少が大きく影響し、配置員も後継者難と高齢化が問題になりました。



■配置薬以外の医薬品生産の隆盛

 富山には薬学専門学校などの人材育成機関があり、また電源開発による化学工業の萌芽がありました。それらが結びついて戦前から化学工業や化学薬品の製造が行われていました。

 富山薬学専門学校を卒業した中井敏雄は、昭和5年に富山化学研究所を創立し化学薬品の製造研究を始め、11年に富山化学工業(株)を設立しました。富山化学工業は現在、医薬品、工業薬品の総合メーカーに成長しています。また、同社は15年に関連会社として新薬・新製剤を製造する東亜薬品(株)を設立し、現在は配置薬のほか、医療用、薬局・薬店用(OTC)医薬品のほか食品、衛生材料、医療器具、化粧品など幅広く製造・販売しています。

 金剛化学(株)を創業した金森將衛も、富山薬学専門学校を卒業しました。一時、富山化学工業に研究部長として招かれましたが、昭和16年、金剛化学研究所を設立し、19年には純度の高いビタミンB‐1の精製に成功し、翌年金剛化学(株)を設立しました。同社は医薬品の原料(バルク)や医薬中間体の分野で成功をおさめました。なお、21年に医薬品卸販売会社として北陸興業(株)を設立、22年には社名を金剛薬品(株)としました。さらに、この金剛薬品から57年に(株)ニッポンジーンという未来指向型の製薬会社が分かれて設立されました。社名のジーンは「遺伝子」に由来するもので、バイオテクノロジーを応用した妊娠診断薬などを製造しています。

 このほか富山には特色ある企業が多く、日医工(株)は、ジェネリック医薬品(後発医薬品)の生産・販売で知られ、リードケミカル(株)は貼付剤の研究開発で発展を続けています。

 ケロリンを中心に幅広く販路を広げている内外薬品(株)の経営理念は、図3のように研究開発を中心に組み立てられています。これは富山のどんな小さな製薬企業にも共通するものと聞いています。



■印刷紙器からパッケージ製造へ

 富山売薬に関する印刷物は、大正・昭和期に入ってますます多様になりました。明治期までは、主に木版で、限られた図柄を薬袋や薬函に印刷していましたが、活版印刷になると目的に応じて色や図柄・文字などが自由にデザインできるようになりました。現在の配置薬も、個別の薬を入れた薬袋(上袋(うわぶくろ)や差袋(さしぶくろ)という)や個別の薬を入れる箱、ラベル、効能書、広告・ちらしなど多くの印刷物が利用されています。これら紙製の袋や箱を印刷紙器といいます。

 また、印刷は極細文字や特殊文字があり、平板な面とは限らず、和紙、洋紙そのほか、プラスチックやガラスなどにも印刷するようになりました。このような需要に応えるため特殊な工夫が凝らされ、特殊印刷と呼ばれる印刷技術が発達しました。

 この技術が富山売薬のみならず、全国の医薬品、化粧品、食品などの製造業者から注文を受けることになりました。そして、デザインの優秀さから印刷紙器の枠を越えて、「包むこと」全体をデザインして包装品を製造するパッケージ産業が誕生しました。

 印刷紙器やパッケージ製造の企業は数多くありますが、歴史的にも古く、売薬との関係が深いのが、印刷関係では朝日印刷(株)と富山スガキ(株)、包装関係では(株)タイヨーパッケージなどです。

 朝日印刷(株)の前身、小沢活版所が富山で売薬の仕事に深く関わるようになったのは明治30年頃で、県内の紙商と合名組織を持ったのがきっかけでした。その後は、活版↓石版↓オフセット印刷と技術が進化しましたが、富山の配置薬の包材の仕事を中心に薬袋のデザインを数多く作成しました。昭和21年に朝日印刷紙器(株)となり、平成14年に朝日印刷(株)となりました。

 同社が県外の製薬メーカーと取引を開始したのは昭和38年であり、以後県外の製薬メーカーとの取引が増え、医家向け・店頭向け医薬品の印刷・包装が多くなりました。また、47年から化粧品パッケージへの取り組みが始まりました。

 富山スガキ(株)は、明治10年須垣紙店として出発し、活版印刷をはじめたのは大正10年で、昭和20年にスガキ印刷工業(株)、44年に富山スガキ(株)となりました。配置薬の紙袋や医薬品の紙器を中心に化粧品や食品のパッケージに発展しました。また、クリアケースの製造やペーパークラフト、商業美術印刷に力を入れています。

 (株)タイヨーパッケージは前身の創業が昭和16年で、手作りによる薬箱などを作っていたのだそうです。23年に太陽紙器工業(株)を設立し、32年には企画・デザイン室を設置して、「富山ますのすし」などの有名なパッケージを考案しました。42年にはトータル包装を目指して社名を(株)タイヨーパッケージとしました。主な製品は、医薬品・食品・菓子の印刷紙器製造、文具・ホビーグッズの製造など幅広く行っています。



■容器製造業の進化・発展

 売薬に関連する容器製造業は、その一(本誌5月号)で述べましたように、大正頃までは、曲げ物、ブリキ缶、ガラス瓶が中心でした。その当時中心だったのは、ブリキでは牛嶋屋金物店(現在の武内プレス工業(株))、ガラスでは富山県薬壜工業株式会社(現在の阪神グループの北陸硝子工業(株))でした。

 昭和に入り、戦争による激動の10年間(昭和12年から22年ごろまで)の統制時代、売薬業者も容器製造業者も窮地に追い込まれ、代用品などを用いて、乗り切りました。戦後の混乱期を過ぎ高度経済成長期に入ると、いろいろな素材が用いられるようになりました。

 まず、プラスチックの登場で、ブリキや瓶の容器の一部がプラスチックに代わりました。また薬瓶の重要な部品であるコルク栓の多くがプラスチック製の蓋(ふた)に変わりました。

 このため、富山市には昭和20年代にいち早くプラスチック製造の事業所が立地し、富山市の工業の特色の一つとなりました。中には売薬の容器でなく、食器や玩具など生活用品を製造する業者も出てきました。

 一方、ブリキ缶の売薬容器や、鉛や錫(すず)の押出しチューブを製造していた武内プレス工業が、各種のアルミ缶、エアゾール缶などの世界的なメーカーに成長しました。同社は売薬関連の仕事をルーツとしながら、独自の分野を開拓して発展した典型的な事例といえます。

 ガラス瓶およびプラスチック容器を進化・発展させた中心の企業は、阪神グループでした。同社のルーツをさかのぼれば、薬瓶を製造する町工場でした。明治・大正期には、「六神丸」や「神薬(しんやく)」、各種目薬の容器に使用するガラス容器の製造が盛んで中小の製瓶会社がありました。これらが昭和16年に統合させられ、富山県薬壜工業(株)となり、阪神グループ創業者〓田真の父、喜一が社長でした。同社は、48年に北陸硝子工業(株)となり、阪神グループの中核会社として、ガラス瓶容器、食品容器などを製造販売しています。

 一方、プラスチックの有用性を追求して各種の容器を取り扱うため、昭和30年に阪神容器(株)を設立し、そののち阪神化成工業(株)、ファーマパック(株)、バイホロン(株)と次々にグループ企業を誕生させました。同グループは、容器の総合一貫メーカーとして発展しています。

 このほか、プラスチック製の容器製造業で医薬品に関係があるものに、昭和21年創業の(株)斉藤製作所、27年創業のキタノ製作所(株)があります。斉藤製作所は創業時にはコルク製造メーカーでしたが、樹脂容器の製造に転換しました。

 次に、薬の金属容器製造業から発展した武内プレス工業(株)の場合はどうでしょう。武内プレス工業の前身は、明治6年創業の牛嶋屋金物店です。三代武内宗八は、廣貫堂の要請に応じてブリキや錫などの金属容器の製造を行い、34年には、アルミニウム製高貴薬(六神丸など)容器を開発しました。大正の中頃、ブリキ容器の製造が本格化し、売薬容器のほか一般用品も製造しました。昭和15年、ブリキ印刷、プレス加工、押出チューブの3部門ができましたが、戦争が激化するとブリキ・鉛・錫などの原料が不足し、ジュラルミン屑などの代用品でしのぎました。

 昭和24年、武内プレス工業(株)となり、25年にブリキ印刷を再開し、28年には押出チューブ印刷(特殊印刷)を始め、31年にはアルミチューブの製造を開始しました。その後の武内プレス工業は、独自の道を歩み、次々と新しい分野を開発しました。

 現在、武内プレス工業の主な製品群は、エアゾール缶、DI飲料缶、アルミチューブ、ラミネートチューブ、樹脂チューブ、フェルトペン容器などです。これらの用途は、医薬品は元より、化粧品、消臭剤、消火剤、殺虫剤、塗料、コーキング材、ワックス、絵の具、煉り歯磨、家庭用品など多岐にわたっています。とくに、アルミの塊を引き伸ばし、継ぎ目のない容器を作る製造プラントを開発して、生ビール缶を製造したときは大きな話題となりました。



■番外、売薬情報とIT産業

 売薬をルーツとして発展した産業という範疇(はんちゅう)からは、外れるかも知れませんが、富山ならではのものとして情報に関する事業に触れます。その一つが薬業関係の情報紙であり、今一つは地方としてはユニークな情報産業です。

 富山市には、配置薬業界の専門新聞が2紙発行されています。昭和22年創刊の「薬日新聞」と、31年創刊の「家庭薬新聞」で、いずれも週1回の発行となっています。富山市に本社があって、奈良市に支局などがあるのも共通しています。両紙は全国におよそ3万人といわれる配置業者ならびに従業者、および配置薬メーカー・卸・関係企業・配置薬団体などを販売対象にしています。富山から発信する全国向け情報、それが売薬情報ですから、いかにも富山らしいですね。

 「情報」といえば、最も現代的なIT産業。それが、江戸時代からの薬種商、新庄町の金岡家の流れを汲む人物によって創始され、事業は現在、大きく展開しています。それは、昭和39年に金岡幸二が富山計算センターを設立し、情報通信事業を行ったものです。その後、社名を(株)インテックと改称し、今日に及んでいます。

 インテックの事業は、情報処理サービス、ソフトウェア開発、情報システム、高度情報通信などです。昭和60年には全国100都市、世界54カ国600都市をカバーするパケット通信網を構築し、特別第二種電気通信事業者として、郵政省に第一号登録をしました。平成3年からは、サービス統合デジタル通信網(ISDN)事業に参入しました。

 かつての売薬は、全国を回って薬を商うと共に、情報発信と収集も行ったとされますが、薬の情報紙やインテックの底流にもその精神が流れているのかもしれません。


図4 富山売薬から発展した主な企業等(分野別、創業年)(図/富山県郷土史会常任理事 須山盛彰氏)


■あとがき

 私はかねてから考えていたこと―「富山の近代的な医薬品工業や化学工業の背後には売薬の伝統が存在する」―という思いを、このシリーズで一通りまとめてみることができました。見た目には、古くからの伝統のかけらも見い出せない先端産業の仕事も、技術を受け継ぐ「人」を辿ってタテにさかのぼれば昭和―大正―明治―江戸時代へと一つながりになります。

 また、「ものづくり」から流通・販売のヨコの関係を見れば、何と密接不離な関係が長年にわたって築かれていることでしょうか。これが、富山売薬の特質、ひいては富山のものづくりの特色であるとの感を強く持ちました。



●筆者紹介
須 山 盛 彰(すやまもりあき)(富山県郷土史会常任理事)



富山の薬業界を支えた三本柱
 医薬品や容器製造会社の「社史」を見ても、薬業界の人と話していても決まって出てくる話題があります。それは「戦時中の物のない時に富山の薬業界を救ってくれたのは三つの包装材会社であった」という話です。
 この話の出所ははっきりしませんが、昭和47年、『薬日新聞』に連載された「富山県薬業人素描我楽記」で、筆者の中山輝氏が廣貫堂専務取締役の伊西清氏の言葉として詳しく紹介していますので、この記事が元になっていると考えられます。
 伊西氏によれば、戦争による激動の10年間(昭和12年から22年ごろまで)の統制時代、窮地に追い込まれた富山薬業界を救ったのは、武内プレス工業、朝日印刷紙器、富山県薬壜工業の三者であったとするものです。
 伊西氏は、続けて次のように言っています(原文のまま)。
 「いくら薬を造ってみたところで、それを包む包装紙や容器がなければ製品の形体を成さないので、それらの包装材料を求めて回った。しかし、統制時代の10年間は“平和産業”といわれて、“戦略用品”にならぬとされ、その上に配置員は赤紙でいなくなり、そんなことから、この商売もこれで終わりかと、よく口にしたものです」
 「そんな時、私が毎日、訪ねていって頼みこむと、朝日印刷、武内プレスをはじめとする罐屋、富山県薬壜などが、廣貫堂と共に死にますよ。富山の薬屋さんと一緒に死にますよと言ってくれました」
 「朝日印刷紙器の朝日重利氏などは、包装資材を私の力の及ぶ限り、求められるだけ獲得して供給したい、と述べられ、かえって激励されました。家庭薬業者としては、地獄で仏に会ったようなものでした」
 「そのころ富山の印刷業者は、ゴム、銅、亜鉛、塩酸、硫酸、紙、ボール、その他の石油、インク、機械部品の資材など、軍需工場の仕事をすれば配給があって生きていける望みがあったが、平和産業の仕事だと恩典がなにもなくなります」
 「3本柱の会社は昔からの付き合いを忘れず、300年の歴史を持つ富山売薬を見捨てなかったのです。もしあの10年間に包装材料の供給が一時でも絶えていたら、富山薬業は大きく揺れて変わっていたにちがいありません」  ―などと、述懐されています。富山売薬と関連産業が不離一体でやってきたことを物語るエピソードであると思います。

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