会報「商工とやま」平成21年11月号

特集2
平成21年度創業100年企業顕彰 その(2)
「信用こそ第一」─感謝のこころで、次の100年へとつなぐ。
株式会社 精田建鉄


 創業100年企業顕彰の第2回目は、明治41年創業の株式会社精田建鉄をご紹介します。屋根、外装、内装の建材及び設備器材の卸売や加工販売、そして建設工事業で大きく発展を遂げてきた同社の歴史について、代表取締役の精田隆芳氏にお話を伺いました。


初代鶴次郎氏が創業


 株式会社精田建鉄は、明治41年に現社長・隆芳氏の祖父である精田鶴次郎氏が開いた精田商店が始まりです。五百石生まれの鶴次郎氏は、非常に血気盛んな若者でした。

 「若い頃の祖父は、とにかくきかん気の、手に負えない男だったと聞いています。でも、その気性だからこそ、商売に向いていたんだと思いますよ。東京へ何のあてもなく行き、たまたま銅板の商売をやっていた店の前を通りかかってその様子をじっと見ていたところ、店の人に声を掛けられ、すぐに住み込みで働くことになったそうです」。

 東京で金物の商売を学び、加工技術を身につけたバイタリティ溢れる鶴次郎氏は、その後、富山に戻り、自らの店「精田商店」を開きます。銅板、雨樋、瓦をしばるための銅線などを取り扱い、薬の容器や茶缶などに盛んに使われたブリキの容器も作っていました。

 「当時、富山連隊の兵舎の屋根工事への納入などで、かなり品物を納めたということも聞いています」。

 また、子どもがいなかった鶴次郎氏は、鶴次郎氏の兄の子で、後に二代目となる健二氏を養子に迎えました。



戦争で焼け野原に


 現在の中央通りの一角の、東四十物町に住居と店を構えていた精田商店でしたが、昭和20年8月2日の富山大空襲ですべてが燃えてしまいます。そのとき、健二氏は徴兵されていて、現社長の隆芳氏ら孫たちは隆芳氏の母の実家に疎開。鶴次郎・ツヤ夫妻だけが東四十物町に残っていました。

 「家族はみんな無事で、私は小学校3年生でした。空襲から1週間か10日くらいして、家に戻ってみたんです。大和と電気ビルと県庁以外はすべて焼け野原でしたが、家の大きな金庫だけがぽつんと焼け残り、中のものは無事だったんです。」。



厳しかった鶴次郎氏の急逝


 戦後、家や商売の再建、そして食糧難と様々な苦労が続きます。米や鉄などの統制によって自由に商売もできませんでした。そんな中、昭和23年に鶴次郎氏は急逝。戦争から帰った息子の健二氏が後を継ぐことになりました。

 祖父の鶴次郎氏に大変可愛がられたという隆芳氏。鶴次郎氏が無くなる日の朝まで一緒に寝ていたといいます。

 「祖父は私にはとても優しかったのですが、とにかく細かくて、礼儀作法にも実に厳しい人でした。子どもの頃はそれを嫌だと思ったこともありました。でも、今なら祖父がやっていたことの意味がよくわかります。小さくてもひとつの店をやっていくということは大変なこと。創業者というのは、そのくらいじゃないと、やっていけないと思いますよ」。



戦後復興から高度経済成長へ


 昭和26年に統制が終わり、ようやく商売も自由にできるようになります。戦後復興で街は賑わい、中央通りも山王さんの祭りの日などには、人であふれ返りました。

 やがて、昭和36年、大阪の仕入れ先で修行を積んだ隆芳氏が実家に帰り、父の商売を手伝うようになります。そして、昭和39年には、東四十物町から緑町へ事務所と倉庫を移転します。

 「店が手狭になったことや、商品が大型となり、それまでの人力だけではなく機械を導入する必要がありました」。

 大量生産・大量消費に対応してメーカーの出荷形態も変わり、商品が大きなコイル状になったため、それを切断する機械も導入。高度経済成長の波に乗り、増大する需要の中、順調な経営が続きます。昭和44年には資本金を増額し、株式会社精田建鉄へと社名変更しました。



地道な商売を


 しかし、そんな順調な経営の中にあっても、二代目の健二氏は、あくまで地道で堅実な商売を貫いたといいます。

 手形での取り引きや銀行からの借金が大嫌いだったという健二氏は、現金での確実な支払いや集金、一旦支払い金額を決めたら、1円でも端数値引きして支払いはしないことなどを隆芳氏に教え込んだといいます。

 「わずかな値引きよりも、商人は信用が大事だと。信用の方が高いぞと、よく言われたものです」。



社長就任へ


 そして、健二氏が昭和48年に亡くなり、いよいよ隆芳氏が三代目を引き継ぐことになります。

 「私の一番の転機は、やはり父が亡くなったことですね。父は手堅い商売をしていましたが、借り入れもしなかったため、商売としての伸びはあまりありませんでした。父が亡くなってからは、銀行から借り入れもして、設備も積極的に増強していったんです」。



業界の大事件が大きな転機に


 もうひとつ、隆芳氏の大きな転機として昭和50年頃に大きな出来事がありました。当時はボウリングブームで、富山県内にもいくつものボウリング場ができ始めていた頃。建屋の建設は大手商社が大手建設会社に発注し、屋根の工事などは名古屋や大阪などすべて県外の職人たちが行っていました。それを見ていた隆芳氏は、技術を持った富山の職人にぜひ仕事をさせてほしいと、取り引きのあった商社等へと働きかけます。

 「富山県の仕事は、富山県の職人にさせてほしいと。なぜ富山の仕事を県外の業者にやらせないといけないのかということで、商社等へ頼みに行きました。すると、お前のところが頭になるなら、工事を発注するという話になったんです」。

 当時、同社では材料販売だけで、工事事業は一切手掛けていませんでした。しかし、これを好機と考えた精田氏はさっそく建築業の許可を取り、新しく屋根や外壁の工事事業へと参入していくことになります。ところが、それを知った富山の職人たちの間では大問題へと発展していきます。

 「職人さんにしてみれば、材料販売をしているのに、俺たちの仕事まで取っていくのかという認識だったんです。私はあくまでも、県内の職人さんに仕事をしてもらうためにしたことだったのですが、なかなか理解してもらえませんでした。しかし、私は絶対に間違ったことはしていないという信念で、最後まで頑張ったんです。いま振り返ってみると、あの大事件を乗り切ったことで、私は大きく変われましたね」。



問屋センターへの新築移転


 昭和50年代後半からは、鉄の知識を生かして、ステンレスの厚物やアルミ、鉄板、サッシなどいくつかの分野での新規開拓をすすめ、それぞれが同社の大きな柱となっていきました。

 そして、昭和60年には、工場の屋根など大型の受注に対応するため、街なかの緑町から、現在の問屋センターに約2600坪の土地を得て、本社、倉庫を新築移転しました。その後、時代はバブルへ。建築ラッシュによって同社の業績も大きく伸びていきます。バブル後も本業以外には投資しなかった同社は大きな損害を被ることもなく、順調な経営を続けることとなります。

 平成12年にはリットガーデン庭安株式会社を設立し、平成20年には屋根・外壁成形ラインを増設するなど、現在のような不況の中にあっても本業を中心にすえた堅実な経営で、着実な業績を上げています。



感謝のこころで


 「いま改めて振り返ってみると、苦しい時に助けてくれた仕入れ先や、思いがけない助言をしてくれた人など、いろんな引き合わせがありました。その助けがあったからこそ、時代の波にうまく乗ってタイミングをつかみ、ここまで来ることができたんです。これは私の力ではなく、社員やいろんな方の力や応援があったからこそだと感謝しています。自分の実力からすると出来過ぎではないかと思いますね」。

 企業が長く存続するというのは大変なことと語る隆芳氏。

 「やはり、この商売を私が引き継がさせてもらった先祖への感謝ですね。また、こういう不況の時に、精田で買ってやろうというお客様に本当に感謝しています。やはり、感謝の気持ちを忘れてはだめだと社員にもいつも言っています。先祖があり、お客様があり、仕入れ先があるんですから」。



次世代へのバトンタッチ


 現在は、長男の光洋氏が、関連会社リットガーデン庭安取締役として、次男の隆宏氏が、精田建鉄常務として活躍中で、いずれは経営を引き継いでいくことになります。

 「中小企業は地道にやること。長続きするということは一番大事」と語る隆芳氏。次代を担っていく息子さんたちにも、自然と経営者としての在り方や信念が、普段の生活の中から受け継がれていこうとしています。

 隆芳氏は、富山商工会議所青年部の創設メンバーの一人あり、その後は、当会議所の議員や監事を務め、平成9年からは常議員も務められています。

 「富山にはまだまだ、すばらしい企業、明るく伸びている企業がたくさんある」と語る隆芳氏。これからも150年、200年と永く続く企業経営を目指すとともに、次代の富山の発展にも期待を寄せています。



株式会社 精田建鉄
富山市問屋町3丁目3番2号
TEL:076-451-7100
●主な社歴
明治41年(1908) 初代社長・精田鶴次郎氏が、富山市東四十物町で精田商店創業
昭和23年(1948) 精田健二氏が二代目社長に就任
昭和32年(1957) 有限会社精田金物店として組織化
昭和44年(1969) 本社を富山市緑町に移転、社名を株式会社精田建鉄に変更
昭和48年(1973) 精田隆芳氏が三代目社長に就任
昭和60年(1985) 富山市問屋町に本社、倉庫を新築移転
平成12年(2000) リットガーデン庭安株式会社設立



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