会報「商工とやま」平成22年1月号

新春特別企画汾スに基づく変化を


 新たな飛躍を期待し、迎えた平成22年。目指す未来に向け、経営者にとって軸足のブレないリーダーシップが求められるのではないでしょうか。
 目まぐるしく変化する環境下にあって、今、改めて大切にしたい言葉、「不易流行」を新春特別企画のテーマに掲げました。
 不易流行は何を意味するのか−−。日本文学でも特に江戸文学について研究されている、富山大学人文学部教授の二村文人氏よりご寄稿いただきましたのでご紹介します。


 「不易流行」と言うと、芭蕉の俳諧を思い浮かべる方が多いでしょう。芭蕉は数え年41歳のときに『野ざらし紀行』の旅に出てから、51歳で亡くなるまでの11年間に、5つの紀行文と、後に俳諧七部集と呼ばれる7つの作品集を残しています。それぞれの到達点を示すのが『奥の細道』であり、俳諧の古今集とまで賞賛された『猿蓑』です。


 初めから余談にわたって恐縮ですが、芭蕉と同じ時代に生きた井原西鶴は、やはり41歳の天和2(1682)年に『好色一代男』を書いて、それまでの俳諧師から浮世草子の作者に転身していきます。また、近松門左衛門も、元禄16(1703)年51歳の時に『曾根崎心中』が大当たりをとって以降、約20年間に24編の同時代の庶民を描いた世話物の浄瑠璃を書いています。このように、人生50年と言われた時代に、元禄期を代表する3人の作家が、いずれも晩年に近くなって新しい世界を開拓しているのは興味深いことです。そして、むしろその時期に残した作品が、現代ではより高い評価を受けていることを思うと、私たちも大いに元気づけられる気がします。


 さて、芭蕉が不易流行という理念に開眼したのは、元禄2(1689)年に46歳で出かけた『奥の細道』の旅を通じてだったようで、同じ年の冬あたりから門人にそれを説いています。芭蕉は自分の俳諧についての考えをまとまった形では残していませんから、不易流行も門人が芭蕉の教えとして書き留めたものによることになります。ここでは、服部土芳の『三冊子』を手がかりに、芭蕉の目指したものをたどってみましょう。

 師の風雅に、万代不易あり。一時の変化あり。この二つに究り、その本一つなり。その一つといふは風雅の誠なり。不易を知らざれば、実に知れるにあらず。不易といふは、新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたる姿なり。(赤雙紙)

 まずこのように語られています。「風雅」は俳諧のことです。芭蕉の俳諧には「万代不易」と「一時の変化」(流行)という理念があって、この二つに尽きるのですが、根本は一つで、それが「風雅の誠」だというのです。風雅の誠は、純粋な詩情という意味に解したらいいでしょう。

 「易」には、「改易」(武士の身分を奪い、領地や家屋敷を没収すること)のように、変化させる、改める、「貿易」のように、取り替える、交換する、「容易」のように、やさしいなどの意味があります。それを否定した「不易」は変わらないこと、不変を意味します。「流行」は文字通り刻々と変化することです。芭蕉は不易と流行は同じもので、どちらも風雅の誠に基づいていると言います。そして、不易を知らないと、本当に芭蕉の俳諧を理解したことにはならない、不易というのは新しいことや古いこと、変化や流行にかかわりなく、風雅の誠の上に立った姿なのだと言います。


 このような考え方は、俳諧に限らず、江戸時代の発想に広く見られるように思います。歌舞伎には「世界」と「趣向」という言葉があります。「世界」は、狂言の背景になる時代、事件(ストーリー)、登場人物の名前(役名)とその基本的な性格・立場・行動の型、主な場面設定などすべての面にわたり、大幅な改変を許さない、作劇上の前提としてあらかじめ存在する枠組みを示します(服部幸雄『歌舞伎のキーワード』)。それに対して、新しく加えられる工夫を「趣向」と言います。

 例えば、歌舞伎十八番の『助六』は「曾我の世界」によっており、花川戸助六は実は曾我五郎で、宝刀友切丸を詮議しています。その五郎が侠客に姿を変えて江戸の吉原へ通い、三浦屋の揚巻と恋仲になっているという、奇想天外な構想が趣向なのです。また、『仮名手本忠臣蔵』も足利時代のこととしてあり、「太平記の世界」によっています。『忠臣蔵』では、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直という、いずれも『太平記』に登場する人物になっています。このように、世界と言う変わらない大筋を踏まえ、さまざまに変化してそのつど新しく見せる趣向を絡ませて、歌舞伎の作品の多くが作られています(『歌舞伎のキーワード』)。


 『三冊子』の続きには、次のようにあります。

 また、千変万化する物は自然の理なり。変化にうつらざれば風あらたまらず。是に押しうつらずといふは、一旦の流行に口質時を得たるばかりにて、その誠を責めざるゆゑなり。責めず、心をこらさざる者、誠の変化を知るといふ事なし。ただ人にあやかりてゆくのみなり。責むる者は、その地に足すゑがたく、一歩自然に進む理なり。

 この部分は、芭蕉の言葉の引用ではなく、『三冊子』の著者土芳自身の言葉で語られており、大変力がこもっています。万物が変化するのは自然の道理で、俳諧も変化を求めなければ、俳風は新しくならないと言います。「押しうつる」は「推し移る」で、新しい俳風に移り変わっていかないというのは、一時の流行に詠み癖が合った(ことに満足している)だけのことで、風雅の誠を求めようとしないからだと断じています。誠を求めず、心を集中させようとしない者は、誠に基づく変化を知ることがなく、ただ人の影響を受けて変化するだけなのです。やや逆説的な言い方をすると、永遠に変わらないものを求めるためには、常に変わっていかなければならないということになるでしょう。


 話が難しくなってしまったかもしれません。もう少し身近なところで、落語でも同じことが言えるのではないかと思います。立川談志が若い頃に書いた『現代落語論』(三一新書)は、今でも落語ファンからバイブルのように言われています。談志はその中で「伝統を現代に」をスローガンに掲げて、古典落語に新風を吹き込もうとしました。彼はその後もずっと古典落語に新しい解釈を試みてきました。

 『らくだ』という話があります。名前を馬(馬太郎とか馬吉とか言うのでしょう)、あだ名をらくだという乱暴者がいて、フグに中って死んでしまいます。兄貴分(らくだに輪を掛けた怖い男です)が弔いの真似事をしてやろうと、通りかかった紙屑屋の久六に長屋を回って香典を集めさせたり、酒肴を持って来させたりします。お清めだと言って無理に酒を飲ませているうちに、実はこの久さんは大変な酒乱で、兄貴分とすっかり主客が逆転してしまいます。最後は、酔っぱらった兄貴分と久さんがらくだの棺桶を担いで火葬場へ運んで行く途中にもうひと騒動起こしてオチになります。この話は多くの名人上手と言われる人たちによって演じられてきましたが、らくだは初めから死んでいて、登場人物の回想の中で語られるだけです(もっとも、大家の家へ死骸を持って行って、カンカンノウを踊らせるというところで意外な活躍をしますが)。ところが、談志の演じる『らくだ』では、らくだが雨の中でぼんやりしているのを見かけた久さんが声を掛けると、「この雨を買え」とまた無理を言い、久さんが「勘弁して下さいよ」と言うと、寂しそうに笑って行ってしまいます(立川志らく『雨ン中の、らくだ』)。従来はただの無法者として描かれるだけだったらくだの孤独な姿を垣間見せることで、話に深い奥行きができたように思います。また、桂米朝は久六が酒を飲みながら肴をつまむ場面で、初めは兄貴分に遠慮して箸を逆さまにして取っていたのが、少し酔ってくるとじか箸になり、すっかり酔ってしまうと手づかみになることで、久さんの酔っていくプロセスを克明に描いて見せます。そして、米朝は「落語には工夫する余地がいくらでもある」と言います。

 落語はおよそのストーリーや登場人物は決まっていますが、芝居のシナリオのようなものはありません。同じ演目でも、細部の演出は個人によって異なります。つまり、談志や米朝が苦心して得たような工夫が加えられて、『らくだ』という落語は存在し続けていくのです。もちろん談志や米朝の工夫で終わりではありません。次の世代の若手たちが、時代に合わなくなったり、聴き手の共感を得なくなった表現を捨て、更に談志や米朝を超える新しい発見を加えていくのです。永遠にそれが繰り返されることによってのみ、『らくだ』は『らくだ』として、落語は落語として生き続けていくのでしょう。

(付記)『三冊子』の引用は、日本古典文学全集(小学館)によりました。


●筆者紹介
1952年(昭和27年)東京生まれ。
信州大学人文学部卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学
現在、富山大学人文学部教授 江戸文学専攻
二村 文人(ふたむら ふみと)氏


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