会報「商工とやま」平成23年10月号

特集1 ≪平成23年度創業100年企業顕彰その(2)≫
  一世紀の信頼と思いを、次世代につなぐ。
     有限会社俣本石材店


 富山市で墓石をはじめ、石工品の製造業を営み、今年で104年目を迎える有限会社俣本石材店。一世紀以上にわたって、地域で愛されてきた同社の歴史と精神について、代表取締役の俣本真理子さんをはじめ、経営に携わるご家族のみなさんにお話を伺いました。


明治40年創業


 現在は富山市八日町に社屋と工場を構える俣本石材店。初代の俣本政次郎さんは、明治40年に中野新町で23歳のときに石割の仕事を始めました。その頃は、まだ墓石は手掛けてはおらず、石積みの仕事をしていたと言います。

 その後、二代目の金治さんが墓石の製造を本格的に始め、近隣の墓地の仕事をするようになりました。金治さんは富山城址公園の大きな石碑も手掛けたとのことで、当時の写真も残っています。また、地域の柔道の指導者としても活躍したほど体格がよい人でした。


上袋に新工場を建設


 三代目で、現社長の真理子さんの義父にあたる幸一さんは、昭和47年に中野新町から上袋に新しい工場を建設し、移転します。

 「石材加工の仕事は、石を切るときに大きな音や粉も出るため、やはり街なかでは、ご近所にも迷惑がかかってしまいます。機械化が進んでいたこともあり、広い場所が必要だったわけですね」と語る真理子さん。

 幸一さんは、昭和55年に60歳の若さで亡くなりましたが、長男の周史さんに最後まで厳しく指導していたそうです。職人としての技と誇りを守り続けた人でした。


多くの人に慕われた周史さん


 周史さんは近畿大学で機械工学を学び、卒業後はすぐに富山に帰り、父の仕事を手伝いました。

 本格的に仕事を始めてわずか6年ほどで父の幸一さんが亡くなってしまったため、四代目として、当時一緒に働いていたベテランの職人さんから学ぶことはもちろん、富山市石材加工協同組合の有志で「八名会」という親睦と勉強のための会をつくるなど、技術の向上と情報交換に努めていました。原石にこだわり、自ら何度も中国に足を運び、質の高い原石を数多く仕入れていました。

 また、地域やPTAの役員としても熱心に活動に取り組み、その人柄から、誰からも慕われる存在でした。自ら努力を続けて石工の技を磨き、人脈を広げ、石材協同組合の会計係も何十年も続けるほど、真面目で人望の厚い人でした。一方、体を動かすことが好きで、ボウリングでは県代表になるほどの腕前。パーフェクトを出したこともあるスポーツマンでした。

 真理子さんとは昭和53年に結婚、翌年には娘の祥江さんが誕生します。


原石の加工から、仕上げまで


 周史さんの弟で、現在は専務の周正さんも大阪の大学を卒業後に富山に戻り、一緒に仕事をするようになりました。

 昭和58年には、機械の増設などのため広い土地を求めて、現在の八日町に移転。500坪ほどの大きな敷地には、原石の加工から仕上げまでを一貫生産できる、充実した設備が揃っています。

 原石を切る機械はビーズワイヤーソー。さらに切削機、平面研磨機、側面研磨機、字彫りのサンドブラスト機、穴開け機など、何種類もの機械を使い、いくつもの工程を経て、美しく艶のある墓石が生み出されていきます。石は1時間で30センチほどしか切ることはできないため、とても手間と時間のかかる仕事です。


富山市南部の開発と墓地移転


 昭和60年頃には、富山市南部の開発が進み、道路建設などのため、数多くの墓地が移転することになります。同社では多くの墓地移転の仕事に携わることになり、本当に忙しい毎日でした。

 「当時はまだ砥石の交換などが完全自動化していませんでした。それに、石の切断や磨く作業にはとても時間がかかるため、夜中まで、ときには翌朝まで機械を動かし続けなければなりませんでした。まだ小さかった娘を連れて、日曜日もなく、家族で仕事場に泊まり込むことも多かったですね」と真理子さんは振り返ります。

 多くの仲間に愛され、慕われた周史さんでしたが、その後、平成13年に病気のため、51歳の若さで亡くなりました。真理子さんは、周史さん亡き後、経営を受け継ぐことになります。家族や従業員のため、大切な事業を継続させていくため、また、職場環境を向上させて社会的信用を高めるために、それまでの個人事業から有限会社へと組織を改め、新たに経営に取り組んでいきました。

 そのとき、仕事の上でも精神面でも大きな支えになってくれたのは、当時大学4年生だった娘の祥江さんでした。祥江さんも大学卒業後は同社に入り、真理子さんと一緒に会社の発展に尽くしています。


次世代につなぐために


 平成18年には祥江さんが、東京の大学時代の同級生だった猛さんと結婚。猛さんが同社での仕事を始めることになりました。猛さんは千葉県出身で大学卒業後はプログラマーとして働いていました。

 結婚を機に、まったく違う土地で異なる分野の仕事に就いたわけですが、富山という土地に早く馴染んで石工の技術を磨こうと、石材組合の若手で勉強会を開いては、お互いに学び合いながら資格を取得したり、地域の野球チームに参加してたくさんの人との輪を広げています。自らホームページを立ち上げて、お客様への情報提供も始めました。猛さんは、仕事への思いを次のように語ります。

 「いまでは、中国から加工した製品を仕入れることが多くなっていますから、当社のように原石から加工して仕上げることができる設備を持った会社は、今後ますます少なくなるだろうと思っています。一方で、中国でも人件費が上がり、粉じんが出たり、力仕事で大変な石工の仕事に就く人は少なくなり、担い手不足の状態です。ですから、今後、技術の面や納期対応の面でも、当社のように自社ですべて対応できる設備を持っていることは強みになるのではないでしょうか。そのためにも、原石から製造することができる貴重な存在として、このまま高い技術を保ち続けていきたいですね」

 石材組合の先輩や仲間たちから多くのことを学んでいるという猛さん。真理子さんもそのことに、とても感謝しています。猛さんは今後も技術を磨き、これまで築いてきた信頼をしっかり守っていきたいと語って下さいました。さらに、「いまでは道具も機械も充実して、いままでは考えつかなかったような作業方法も生まれてきています。良いものは残しつつ、新しい技術も勉強していきたいですね。また、墓石だけではなく、暮らしのなかで石材を活かせるような商品開発や技術も探っていきたい」と、意気込みます。最近では、インテリアなどへの需要もあるそうです。


時を越えて、思いをつなぐ


 小学生の頃から、両親が毎日遅くまで働くそばで遊びながら、自然なかたちで仕事を見て覚えてきた祥江さん。現在は幼い二人のお子さんの子育てをしながら、猛さんや家族の仕事を支えています。祥江さんは、墓石の仕事に携わる思いを次のように語ります。

 「先祖が思いを込めて建てられたお墓は、代が替わっても、その場所を訪ねることによって、年月をつないでいくことができます。形あるものにみんなが手を合わせるというその場所で、みんなの思いがつながっていく。私たちがつくっている場所は、そういうとても大事な場所だと思うのです」

 家族の歴史や思いをつなぐ場所づくりへの深い思いが伝わってきます。

 お墓は建てて終わりではなく、その後も何十年にもわたって守っていくもの。現場監督やお客様の対応をしている専務の周正さんも、永きにわたって、お客様に喜んでいただける仕事を心がけていると話して下さいました。

 「100年続いたその名に恥じないよう、技術を磨き続け、この先も永く続くよう頑張っていきたい」と話すみなさん。その誇りと、支えて下さっている方々への感謝を胸に、新たな家族の歴史を刻み続けています。


アフターフォローやクリーニングも


 墓石製造の技術は向上し、鉄筋やステンレスの金具の取り付け、耐震ボンドなど、基礎や内部の見えないところでは、30年前に比べて、その技術も材料も大きく変化しています。

 墓石の形や色もオーソドックスなものから、その方の個性や好みを反映したデザイン性の高いものまで、さまざまな要望に対応。また、仕上がりについてもCGでリアルに再現できます。修理やクリーニングについても、お気軽にご相談してみてはいかがでしょうか。同社では墓地の販売も行っています。

 代が替わると、どこでお墓を建てたかわからなくなるものですが、同社では定期的に顧客にDMを送るなどアフターフォローも万全です。また、同社で手掛けたお墓でなくても、さまざまな相談に乗っていただけるとのことですから、一度相談されてみてはいかがですか。



有限会社俣本石材店 ▼URL
本社工場 富山市八日町310-7
TEL:076-429-2881
matamoto@cronos.ocn.ne.jp

●主な社歴
初 代 俣本政次郎 明治17年生まれ
二代目 俣本 金治 明治31年生まれ
三代目 俣本 幸一 大正9年生まれ
四代目 俣本 周史 昭和25年生まれ、平成13年没
五代目 俣本真理子 昭和29年生まれ、平成13年から代表に



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