富山市で鉄工業を営み100年の時を歩み続けてきた稲野鐵工産業有限会社。
取締役社長の稲野廣治さんと妻の康子さんに、同社の歴史といまも変わらず大切にされている仕事への信条について伺いました。
創業は明治40年
稲野家はもとは富山藩につかえた武士の家柄でしたが、廃藩置県によって職を失ってしまいます。そのため、明治に入ってからは代書屋を営んでいたと言います。
その後、明治40年に、現社長の稲野廣治さんの祖父にあたる稲野弥三太郎さんが富山市千石町で創業したのが稲野鉄工所でした。農作業に使う鎌や鍬、斧などを作る鍛冶屋の仕事をしていたそうです。弥三太郎さんは明治15年生まれで当時20歳代半ばでした。そして、このお店が、今日の稲野鐵工産業有限会社の礎となったのです。
力蔵さんが事業を継承
弥三太郎さんの子供は一人娘のスミ子さんだけだったため、その後、跡継ぎとして力蔵さんを養子に迎えます。大正13年には20歳過ぎで稲野鉄工所を継承しています。
力蔵さん、スミ子さん夫妻にはその後、7人の子供が生まれ、現社長の廣治さん(四男)は昭和11年に誕生しました。
鉄砲の製造、そして母の死
力蔵さんは、昭和13年には稲野銃器製作所に名称を変更。さらに昭和18年には稲野銃砲工業株式会社を設立します。当初は狩猟に使う猟銃を作っていましたが、その後、武器用の鉄砲を製造するようになります。また、手狭になった千石町から、長柄町へと移転したのもこの年です。
廣治さんは子供の頃の会社の様子を次のように語ります。
「戦時中は、40人ほどの人を雇っていました。忙しい時には町内の女の人にも来てもらい、鉄砲の木の部分を削ってもらっていたものです。そのくらい忙しかったんです。
仕上がった鉄砲は、当時富山連隊があった今の富山大学のすぐ目の前のよろず屋に納めていました」
実はこの年、スミ子さんが36歳の若さで病気のため亡くなるという悲しい出来事がありました。まだ7歳だった廣治さんをはじめ、上は中学生から、下はまだ生まれて間もない幼子が残されました。
その後は、廣治さんとは5歳違いの長女の弥生さんが、食事を作るなど家族の世話をしていたそうです。
敗戦と会社の解散
昭和20年8月1日の富山大空襲で、千石町にあった自宅は燃えてしまいましたが、幸いにも家族は無事でした。
「そのとき、姉の弥生と私と、まだ4歳ほどだった妹の富貴とで近くの防空壕に避難していました。でも、町内の役員がそこも危ないと言うので、みんなで黒瀬の橋の方へ逃げたんです。橋を渡ると爆撃されるかもしれないと言われ、土手で一夜を明かし、翌朝ようやく橋を渡って親戚の家へ避難しました。いまでもB29が赤い炎に照らされて見えたのを鮮明に覚えています。
黒瀬の方に逃げた人と神通川の川原に逃げた人では大きく運命が分かれました。神通川の川原へ逃げた人は相当数亡くなりましたからね。
祖父の弥三太郎や兄とも親戚の家で再会でき、父も無事でした。本当にたまたま、誰も怪我をすることもなく、生き延びることができたのです」
しかし、敗戦とともに、稲野銃砲工業株式会社は8月に解散。すると、すぐに進駐軍が工場にやってきて、鉄砲の部品など、少しでも危険なものがないか調べていきました。何かあれば地面を掘っては、埋めたそうです。
戦後は稲野鉄工所を再興 鑿井機の製造販売へ
戦後まもなく力蔵さんは、市内で製薬会社や酒造会社、ゴム会社などを営んでいた仲間たちと丸三商会という会社を始めますが、やがて昭和23年に解散。そして、昭和24年に稲野鉄工所を再興することになります。
それまでの農耕具に加えて、井戸を掘るための鑿井機の製造販売に本格的に乗り出していきました。
「父は、高岡にあった般若鉄工で、当時3台しか作らなかったという大きな旋盤を買って、加工の仕事を始めました。鑿井機とは井戸を掘るための機械で、その軸を作る仕事を主にするようになりました」
水道がまだ普及する前は、富山市内でも井戸水が使われていました。現在、同社がある富山空港そばでも50メートルほど掘れば、常願寺水系の水が湧き出るとか。とてもまろやかでおいしい水が飲めるそうです。
その他にも、島川の飴屋さんの製造機や造り酒屋の機械なども特注で作るようになりました。飴の製造機はいまでも廣治さんが手掛けています。
コーヒー会社の営業マンに
廣治さんは、富山商業高校を卒業後、日本大学経済学部へと進学します。卒業後の昭和31年には東京の鈴木コーヒーに入社し、営業マンとして活躍。現在のドトールを創業した鳥羽博道名誉会長も同年の入社でした。
「当時はまだ珍しかったコーヒーに可能性を感じて、将来はぜひ、コーヒーを商売にしたいと考えていました。
しかし、1〜2年足らずで実家の商売が心配な状況になり、富山に帰ってくることになったのです」
廣治さんの帰郷
「父と兄が鉄工所の仕事をしていましたが、父は職人肌で営業はまったくだめでした。そこで稲野の家を立て直さなければと思い、会社を辞めて富山に帰り、必死に働きました」と語る廣治さん。
当時、農業関係に加え、井戸を掘る鑿井の仕事は結構多く、廣治さんは入善から婦中まで、県の東部にかけて鑿井機を数多く販売しました。
また、廣治さんは設計も手掛けていました。幼い頃から工場の仕事を見てきたこともあり、ある程度のノウハウはありました。それでも、富山大学や当時の県立技術短大で聴講生として学び、さらに独学で技術を磨いていったそうです。
康子さんと結婚
昭和42年に廣治さんは康子さんと結婚。康子さんは主に経理を担当して、忙しい毎日を過ごすようになりました。
「鑿井機の調子が悪くなれば、朝早くからピンポンが鳴ったり、夜遅くに明日まで直してほしいと持ってこられたりということもよくありましたね」と康子さんは振り返ります。
その後、昭和53年に現在地の富山市才覚寺に移転し工場と住まいを新築。昭和57年には、社名を稲野鐡工産業有限会社としました。また、鑿井機ばかりでなく、農機具用の車庫や倉庫などの鉄骨建築も手掛けるようになりました。
特殊性を活かした仕事へ
その後、同社では、ビルに貯水槽などを設置するための架台を手掛けるようになりました。
架台は設置される場所によってサイズもまちまちなため、規格品ではない仕事がほとんどです。また、20〜30年は使えるようにするため亜鉛メッキをしますが、仕上げにもとても手間がかかります。富山だけでなく、石川、福井等の仕事を請け負っていたので、建設ラッシュのバブルの頃は大変な忙しさでした。
この他にも、変電所のワイヤードラムを上下させる機械など、設計ができる廣治さんだからこその、特殊な仕事を得意としています。
平成15年に父の力蔵さんが99歳で亡くなりましたが、仕事熱心で細かな仕事を得意とし、晩年まで工場でのものづくりを生き甲斐にしていたその姿、思いを廣治さんはしっかりと受け継いでいます。
東日本大震災以後は仕事も減っているとのことですが、現在は康子さんの弟の村下哲正さんとともに、信頼を第一に製造・販売にあたっており、同業者が減る中で貴重な存在となっています。
コストばかりではない大切なものを伝えたい
高度経済成長期、バブル、そして現在と、様々な時代をともに支え合い、歩いて来た廣治さんと康子さん。海外移転が進む日本のものづくりとコスト主義に、いま危機感を抱いています。
「日本は資源のない国です。資源を活かすためにも、当社では20年30年は十分に使えるものづくりを心がけてきました。少しでも安くではなく、少しでも長く安全に保てるようなものづくりを若い方にも、もう少し理解してもらえるといいですね」と語ります。
安かろう、悪かろうではなく、最初は多少費用がかかっても、安心できるものづくりの基本の大切さを伝えたいと言います。
「普段は人の目に触れないところの仕事こそ、その土台がしっかりしていなければあとで大変なことになります。正直なものづくりこそが、これからの時代は、もっと大切になっていくのではないでしょうか」と語るお二人。
東日本大震災のあと、大きく揺れ動く日本のなかで、信頼を第一に長年ものづくりを続けてこられた方ならではの言葉が胸に響きます。
稲野鐡工産業有限会社
富山市才覚寺215番地
TEL:076-429-2591
●主な社歴
初 代 稲野弥三太郎 明治15年生まれ
二代目 稲野 力蔵 明治36年生まれ
三代目 稲野 廣治 昭和11年生まれ