会報「商工とやま」平成23年8・9月号

特集2
いのちを支える「食」を扱う店として、信用を第一に
平成23年度創業100年企業顕彰その・ 吉岡食料品店


 富山市で青果食品の販売を手掛け、明治以来、116年の歴史を誇る吉岡食料品店。長く地域で愛されてきた同店の歴史と、受け継がれてきた精神について、四代目社長の清明さんと、清明さんの叔父の清三さんにお話を伺いました。

明治28年創業


 富山市桃井町に店を構える吉岡食料品店。創業は明治28年(1895)に遡ります。初代は上市町生まれの吉岡直次郎さんです。4人兄弟の次男坊だった直次郎さんは富山に出て、現在の店舗のすぐ隣の場所で、青果を中心にした食料品店を営んでいました。昭和3年に直次郎さんが亡くなると、清明さんの祖父である清一さんが事業を継承します。

 直次郎さんも清一さんも消防組のメンバーで、店を経営しながらも、そこで多くの仲間を得て、様々な人脈を築いていきました。当時、消防組の仕事はまちの花形で人気があり、大いにもてたそうです。



大和の開店とともに


 「昭和7年に宮市大丸富山店(現大和富山店)が開店すると同時に、店内のレストランや飲食店などへ食材を納入するようになりました。以来今日まで約80年の長きにわたって、取引をさせていただいています」と話す清明さん。

 清一さんは、大和をはじめ、黒部ダム建設を手掛ける電力会社や宇奈月温泉など、大口の取引先を次々と開拓。店は大いに繁昌しました。

 清明さんの父の清孝さんは、清一さんの長男として大正6年に誕生。富山商業高校に通っていた清孝さんは、ある朝、「忙しい店の手伝いの方が優先だ」と父の清一さんに言われ、高校を中退して店の仕事に専念せざるを得なくなりました。次男の清さん(後に「フルーツよしおか」(富山市砂町)を創業)も中学卒業後に店を手伝っています。

 また、昭和6年には三男の清三さんが誕生しました。戦中は、戦争に徴兵されていた清孝さんら2人の兄に代わって、清三さんが父の仕事を手伝います。

 「3人の女兄弟、母や祖母もいましたので、私は小学校に行く前から、もっぱら配達などの仕事を手伝ったものです」



戦火のなかで


 残った家族で店を切り盛りしていましたが、昭和20年8月2日の富山大空襲で、店舗も自宅も失ってしまいます。

 「ギリギリまで家にいたのですが、すぐそばまで火の手が迫っているのを見て、家財道具をリヤカーに積んで母や祖母と護国神社に逃げようとしました。でも、神社の入口で兵隊に出くわし、さらに有沢の方に逃げたんです。そのとき、焼夷弾が私のすぐそばに落ちましたが無事でした。幸い家族も無事で、翌日には護国神社で祖母らとごはんを炊いて食べていたところで、消防組の仕事をしていた父と再会。私たちの様子を見て父も驚いていましたが、生きるために食べるというか、しっかり食べて生きようという祖母のたくましさが支えになっていたと思います」

 その後、家族は自転車でリヤカーを引いて笹津へ向かいました。清三さんの祖母の実家の旅館まで、真夏に16キロの道程を、汗や泥にまみれて避難したそうです。



活気づく戦後の復興期


 市街地は一面の焼け野原でしたが、大和の建物が残っていました。終戦時には国内にいたという兄2人が無事に帰還すると、ふたたび家族全員で店と自宅の再建に歩み始めました。

 「戦後の物資の無いときですから、父や兄が焼き芋やサツマイモのお菓子を作ったときには、行列ができたほど良く売れたものです」

 戦後の復興とともに、富山のまちは活気づきます。やがて高度経済成長期には総曲輪通りは人であふれ、夜9時頃まで忙しかったそうです。総曲輪のまちを歩くことを「総ブラ」とも言い、娯楽と言えば映画ぐらいしか無い時代でしたが、子供も大人もこぞって、まちに繰り出しました。まちの中心部に公共施設から商店街まで様々な施設が集中していたため、人も物も集まり、大いに賑わっていた様子が目に浮かびます。



清孝さんが受け継ぐ


 しかしその後、昭和33年に清一さんが脳梗塞のため50代で急死。長男の清孝さんが三代目として事業を引き継ぎました。清孝さんも、父や祖父同様、店の経営とともに消防団の仕事にも力を注ぎ、地域のために貢献したそうです。

 清孝さんはとても計算が早く、市場の競りでの買付けなどの上手さは、群を抜いていたとか。そのため、兄の清孝さんは買付け、清三さんは配達と、兄弟で役割分担ができました。

 また、清孝さんはとても几帳面で、弟にも子供にも厳しく、「仕入れから帰って来ると、いつも必ず車や自転車をぴかぴかに磨いていました。父の清一にも、几帳面で頑固なところがあったように思いますが、やはり親子ですね。清孝には、仕事の付き合いで遊びに出かける際にも、『何時に帰ってくるのか』とその都度うるさく言われ、よく兄弟喧嘩をしたものです」と、清三さんは振り返ります。



お客様の要望に柔軟に対応


 清三さんは昭和30年代に独立し、西町にあった明治屋の中でコロッケ店を営みました。独自に開発した、クリームソースを使ったスパゲッティ・コロッケが、どこにもないおいしさと評判になり、よく売れたそうです。

 実は、清三さんは独立前から料理が得意で、大和などのレストランや飲食店では、食材の納入はもちろん、調理の手伝いもしていました。

 「食材をそのまま納入するのではなくて、今で言えばカット野菜のように、栗はむいてから、海苔はあぶってからというように、すぐに調理できるように下ごしらえして納めていました。さらに調理場で料理の手伝いもしていましたから、重宝がられていたんだと思います」

 店のニーズに合わせた柔軟な姿勢に、サービスの原点を見るようです。



突然の父の死から


 しかし、働き盛りの清孝さんが昭和50年に58歳の若さで急死したため、当時30歳の清明さんが店を継ぐことになりました。

 「心の準備がまったくないまま、父が亡くなりました。さらに、父の後を追うように、母も間もなく53歳で亡くなったんです。このとき、ずっと一緒に店をやってきた弟の明男(三男)がいてくれたのでとても心強かったですね。父は自宅の隣に3階建ての建物を建てたばかりでしたから、私はまずその借金を返すのに無我夢中でした。幼かった子供をリンゴ箱に入れて、とにかく私たち夫婦と弟の3人で頑張るしかない、と夜遅くまで働きました」

 清明さんは昭和46年に幸子さんと結婚。以来40年にわたって、共に様々な苦労を乗り越えてきました。ここまで店を続けてこられたのは妻の幸子さんのおかげであり、「本当に無くてはならない存在でした」と清明さん。

 「とにかく信用第一、まじめにやってきただけです」とも話して下さいました。



子どもたちの食を大切にしたい


 時代の流れのなか、スーパーが登場し始めると、青果業を営む地域の店はどんどん無くなっていきました。富山青果物商業協同組合の組合員数は30年前には360名でしたが、現在は約130名となっています。流通形態の変化、人口減少、少子高齢化、食の多様化なども大きく影響しています。

 清明さんは、子供たちの命を支える「食」の大切さを訴えます。

 「朝食にカップラーメンを食べたり、お金だけを渡されて食事をしている子供たちがいると聞きます。香川短期大学名誉学長の北川博敏先生のレポートによると、小学生でも高脂血症や肝臓障害、肥満など、異常のある子供が多いそうです。スナック菓子などではなく、野菜や果物をきちんと食べるような食生活、食習慣が大切ですね。学校給食でも果物が出ることは予算などの関係からも減っているように思います。未来を担う子供たちの食をもっと大切にしてもらえたらと思っています」



いい食材を届け続けたい


 飲食店などでは原価計算をしないわけにはいきませんが、食材は値段だけで選ぶものではありません。

 「いい食材は品質や時期、用途に合わせた選び方がありますし、値段にも理由があります。自分たち自身も商品知識を深めますが、お客様にももっとご理解いただけたらいいですね。

 私たちは、いのちを支える食を扱うお店として、今後も信用を第一に努めていきたい」と清明さんは語ります。

 安さばかりを追い求める先には、明るい未来は待っていないことに多くの人は気づき始めています。一世紀を超える店舗経営の歴史からも、次の時代へのヒントが見えてきそうです。


吉岡食料品店
富山市桃井町1-2-1 TEL:076-424-5647

●主な社歴
明治28年創業(1895)
初代  吉岡直次郎氏 昭和3年没
二代目 吉岡 清一氏 昭和33年没
三代目 吉岡 清孝氏 昭和50年没
四代目 吉岡 清明氏 昭和19年生まれ、昭和50年から代表に



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