会報「商工とやま」平成24年2・3月号

誌上講演会「まちづくりセミナー」
地域密着の顧客創造型商店街づくり〜住民と共に生きる商店街をめざして〜
        岩村田本町商店街振興組合理事長 阿部 眞一 氏


 全国には1万2000の商店街がありますが、そのうち年間300とも400ともいわれる数がつぶれています。役員が高齢になり、もう団体として活動できないという商店街も数多く存在しますし、十数年前に高度化資金で多くの商店街が駐車場を造りましたが、利用者の伸び悩みから組合員が退会して高度化資金が返済できなくなり、組織を解体する例も増えています。


中山道二十二次の宿場町「岩村田」


 東京を出て軽井沢を過ぎると、すぐに佐久平という新幹線の駅があります。そこから八ヶ岳高原線に乗り換え、南へ一駅行った岩村田駅から徒歩5分のところが、中山道22番目の宿場町として栄えた岩村田商店街です。

 岩村田商店街には、戦後三つのターニングポイントがありました。一つは昭和38〜42年、土蔵だけ残して木造建築の店舗を全部壊し、鉄筋コンクリートのビルに造り替えたことです。当時、少しブームになった防災建築街区構造事業の指定を受け、国から補助が出たのです。

 昭和42年からは高度成長の波に乗って商店街の黄金期がやって来ました。イベントをすれば黒山の人だかりで、店内にお客さまが入りきれないほどでした。ただ、それは、当時のお客さまが買い物をする場所が、商店街しかなかったから起きた現象なのです。


大型店襲来


 外部環境は変化します。平成9年、長野冬季オリンピックの開催に向かってインフラ整備が盛んでした。高速道路の佐久インターチェンジが私どもの商店街から北に800mの地点にでき、その周辺には群馬村(群馬県下に本部拠点をもつナショナルチェーン)といわれている広大な大型ショッピングセンターが出現します。また、新幹線の佐久平駅も商店街の西700〜800mの地点にでき、そこに約15万Fのイトーヨーカドー、ダイエー、ジャスコが出店するといううわさが聞こえてきました。

 その当時、私たち青年会のメンバーは、何とかそれを阻止しようと、理事長、会長にお願いに行きました。しかし、長老たちは「大丈夫、俺らは、大店法ってもので守られるんだよ」と言うばかりでした。私たちは、おやじたちの言うことを聞いていても駄目だと、一気に協同組合を解散して、平均年齢36・7歳の青年会のメンバーが100%理事となった岩村田本町商店街振興組合という組織を立ち上げました。その際、長老たちにはすべて退いていただきました。これが二つ目のターニングポイントです。


「日本一イベント」へアーケードも全面改装


 そして、3億8000万円をかけて、平成14年にアーケードを造り直したのです。しかし、うわさどおり大型店がやって来ました。佐久市は今は合併して10万都市になりましたが、当時、人口約6万6000人のとき、佐久市の大型店売り場面積占有率は81・7%と、全国で五本の指に入る高さでした。岩村田だけで換算すると96・7%で、旧商店街は4%に届かないのです。それだけの売り場面積で、大型店と戦わなければいけなくなってしまいました。

 マスコミも非常に冷たくて、新幹線の開業と新しい商業エリアばかりをニュースで盛んに取り上げるのです。その当時、ジャスコには月に60万人のお客さまが来ていました。その映像と、旧商店街の朝5時、シャッターが全部閉まっている映像とをわざわざ対比させて流すので、非常にダメージが大きく、衰退していく旧商店街というイメージがどんどん広がっていきました。

 「これではまずい、何とかしなければいけない。イベントを開いて、日本一元気な商店街をメディアを通じてアピールしよう」と取り組んだことが二つあります。一つ目が、220mという商店街の延長を生かした「日本一長いものを作ろう大作戦」という計6回の挑戦シリーズです。1回目は草もち、2回目はリンゴと桃のロールケーキを作りました。長さが200mのものです。3回目は百人一首の巻物、4回目はマツタケご飯ののり巻きを作りました。これがNHKのBS番組「商店街の達人」に取り上げられ、「企画の達人」の称号をいただきました。

 二つ目は、「景気時計判定会」です。「景気」と「ケーキ」を掛けて、大きなショートケーキの模型を作り、そこに壁掛けの丸い時計を埋め込んで、毎月、商店街や行政のメンバー、地域のお客さま等々30〜40人が集まって、今の景気は何時でしょうという判定をしたのです。この景気時計は、「日経ビジネス」の表紙を飾りました。

 これらの取り組みが非常に評判になり、1週間に幾つもの団体から問い合わせが来るようになって、私たちは得意満面でした。


打ち上げ花火的要素の集客イベントからの脱却


 各イベントは5000人ぐらいの集客力がありました。すべて戦略どおりで、イベントこそが商店街の活性化だろうと思いながら商店街をふと見渡すと、42店舗あったお店のうち、何と15店舗が撤退していたのです。少し不安になって、すぐに地域のお客さまにアンケートを採りました。その結果、80%以上の方がイベントを楽しみにしていることが分かってまずはほっとしたのですが、商店主へのアンケートでは真逆の結果が出たのです。八十数パーセントが反対で、理事の中でも賛成している人が少なかったのです。

 若かったのでなかなかそれを受け入れることができなかったのですが、振興組合の総会で、反対する理由が三つ出てきたのです。

 一つは、会費の無駄遣いだというものです。イベントの材料費や備品代に全部で150万〜200万円かかります。「私たちの会費をそんなことに使ってもらいたくない」という声が出てきました。二つ目は、イベントには約150人もの人手を要します。若手が皆駆り出される中で、手伝えない年配の方が、バツが悪いというのです。三つ目は、イベントをしても自分の店の売上が上がらないということでした。

 若かった私は、総会で不満を持つ人と大げんかをして、「売上を上げるには、自分で何とかしなきゃいけないんじゃないのかい。あんたの店の棚ってほこりだらけじゃん」と、他人の店に土足で踏み込むという商店街のタブーを破り、大変なことを言ってしまいました。

 そして、イベントは一時中止することになりました。考える時間を得た私たちは、やはり商店街の原点に戻ろう、魅力あるお店の集合体が魅力ある商店街をつくるという原理原則を守ろう、と考えました。

 原点回帰するためには、やはり個店を強くしなければいけません。そもそも、四十何軒あるうちの15店舗がなぜ撤退したのか。考えてみると撤退したのはみんな店子(テナント)だったのです。大型店が出店したおかげで売上が4〜5割落ちました。すると当然、利益が落ちます。でも、強い商店は皆、店頭売上の減少は大きな影響がありません。文房具や制服、シューズ、OA機器など各種学校と提携している店は安定的な売上があるからです。商店街が栄えていた頃の蓄えで、アパート経営や土地を貸している店主もいます。

 しかし、テナントはそうはいきません。商店街で足並みをそろえ、全部の個店を強くしようといっても、なかなか足並みがそろえられる状況ではなかったわけです。


せがれ世代が勉強 真の経営者になるために


 私たちは、まず自分の足元から手をつけることにしました。

 振興組合を立ち上げた際、各店の同意書を取りました。同意書には代表者の印がなければいけないので、商店街の世代交代と同時に、商店の世代交代もしていたのです。しかし、「取引業者も少し冷たいし、金融関係もなかなか融資してくれない」という話が聞こえるようになっていました。私たちは社長のせがれなので「社長」にはなれましたが、誰もが「経営者や商人」になれるわけではありません。やはりそれなりの勉強をしなければいけないと気付いたのです。

 若手の理事が6人、後継者養成講座で勉強しました。月に1回ホテルを借り切って、朝8時から夜中の12時まで勉強して、その後宿題をしてディスカッションします。何をしたかというと様々ですが、経営に対する自分の志はどのようなものか。創業者が起業した志とは、と。例えばうちは菓子屋です。饅頭を売っていますが、「饅頭屋を継ぐのではない。創業者の精神を継ぐことが跡継ぎと言うんだ」と言われて、ものすごく考えました。そして、どのような店にしたいのか。自分の店の強みと弱み、どの層のお客さまを狙うのか、そして自分の店の生存領域などを具体的に一つ一つ挙げていき、テーマ別に科学的に研究しながら、自分たちの店の理念を構築していきました。


発想の転換T町で商いをさせていただく


 同時に、「商店街は誰のものか、商店街が存続するとはどういうことか」というテーマも考えていきました。商店街は、店主のものでも、商店経営者のものでも、大家さんのものでもありません。「商店街とは、商店街を利用してくださるお客さまのもの」です。また、私どもは古い商店街ですから、商店街を中心にして町が形成されてきました。しかし、商店街がお客さまのものであるならば、われわれは町の中で商いをさせていただくことになる。自分さえ良ければという考えを捨て、「お客さまのお役に立つために商店街があるのだ」というところに考え方を転換させていったのです。

 その商店街で商いをする自分たち個店の役割は、商店経営を通じてお客さまの暮らしに役立つものを仕入れ、作り、販売していくことであり、お客さまのニーズはさまざまに変化していく。それを解決していくわれわれは、「変化対応業」であり、「問題解決業」であると定義付けました。

 そしてコミュニティやコミュニケーションの担い手として、地域住民の日常を支えるのが商店街の新しい機能だと考えました。もっと具体的に言うと、安全、安心、環境、福祉、食育、子育て、高齢者の相談相手、文化の創造、伝承といった公共的な役割を商店街は担っていくのです。そこで、私たちは半径300m、おばあさんたちが歩いて買い物に来られる範囲でお客さまと「共に暮らす、働く、生きる」商店街を形成していくことにしました。

 これが私どもの商店街の三つ目のターニングポイントでした。


空き店舗対策への着手


 商店街の進む方向性が明確になったところで、次に空き店舗対策に取り組みました。15〜16軒が空き店舗になっていたので、非常に大変でした。店主が意識改革をしてお客さま満足をめざし、自店を再生する方法もありますが、私たちは商店街の組織が一致団結し、地域の皆さまと「共に暮らす、働く、生きる」というコンセプトのもと、空き店舗対策を練っていきました。それでスタートしたのが、コミュニティスペースの創成です。

 【おいでなん処】は、地域のコミュニティスペースです。15年間シャッターが閉まったままだった呉服屋さんの、総けやき造りの立派な土蔵を、コミュニティスペースとして活用したのです。カルチャースクールやサークル、団体、お祭りの本部席と、年間6000人がここに集まっています。

 【おかず市場】は、商店街直営のお惣菜屋さんです。大手スーパーの出店により、私どもの商店街には昔あった肉屋さん、魚屋さん、八百屋さんがつぶれて無くなってしまっていたのです。生鮮三品のお店がないとお客さんが毎日来てくれなくて商店街はつぶれるというジンクスがあります。これは困るということで、8回ほど朝市を開きましたが、継続しません。その朝市に来ていただいたお客さまから「お惣菜屋さんがいいよ」という意見をいただき、すぐさまアンケートを採ってみました。お惣菜屋さんに80%賛成というお客さまの声があったことから、急きょ事業を変更して、おかず市場を開きました。

 週変わりのメニューのほか、毎日50種類のメニューが並び、年間2200万円の売上があります。経常利益が300万円です。9年間、増収増益を続けていて、収益は商店街の特別事業費に組み込まれています。

 地域のお客さまの冷蔵庫代わりとして、サンダル履きで来店いただけるおかず市場は、「地域の皆さまと共に暮らす、働く、生きる」というコンセプトが実践できている例だと思います。

 先日、おかず市場の隣に、【みんなの市場】という商店街のミニスーパーも開業しました。ここを拠点に、買い物弱者のための配達サービスを提供していきます。従来の配達サービスは、単独ではあまりにも単価が小さく、補助金が打ち切られると撤退せざるを得ませんでした。私どもは、「みんなの市場」できちんと利益を上げ、商いの原点に戻って配達サービスを実施しようと考えています。

 【本町手仕事村】は、チャレンジショップです。県外などの失敗例を調べると、大体が30坪で家賃が15万〜18万円になっており、出店希望者はそれだけの家賃を賄えるだけの能力や商品力があるか不安になるのだそうです。そこで私どもは、施工代は補助金で賄い、1区画2・5坪、家賃は月1万5000円に設定しました。

 6区画に対して44名の応募がありましたが、面談等で約半数になりました。最終的には物販を除き、若者たちがその場で製造販売できる業種に限定し、ステンドグラス屋さん、着物を洋服にするリフォーム屋さん、ネイル、マッサージ、パソコンで名刺やポスターを作る人、彫金でオリジナルの指輪を作る人の6名でスタートしました。

 こうして一つの空き店舗から始め、やがてその2・5坪が手狭になって、売上も上がっていきました。自信もついてきて、独立して空き店舗に出たいという要望も出てきました。実際に店を大きくしたのは彫金屋さんです。マッサージや彫金の指輪屋さんは、教室を併設して教えています。


地域貢献をめざした商店街の街づくりへ


 私たちは、魚釣りやバーベキューなどの小さなイベントを年間15〜20回行い、お客さまの生の声を聞いています。これまでに8000通のアンケートを回収していますが、その中で一番多かったのが、教育に対する不安の声でした。

 そこで私たちは、日本で初めて商店街が経営する学習塾【岩村田寺子屋塾】を開業しました。ここでは小学1年生から中学3年生までの子供たちが混ざり合って学ぶことができますので、お兄ちゃんが子供の面倒を見ています。さらに、履物を揃える、あいさつをする等のしつけも、商店街がかかわって行っています。

 【子育てお助け村】は、子育てのサロンです。マンションの閉鎖された空間で乳飲み子を抱え、育児書を片手にまさしく育児ノイローゼになろうとしている若いお母さんが、確実に増えています。そんなお母さんが子供を連れて気軽に立ち寄れる、現代版井戸端会議ができる場所です。毎日3〜8組のお母さんたちがお弁当を持って訪れ、子供たちと過ごしています。子育てサロンと無認可の短時間の託児所を併設しています。また、商店街の中にある理美容のお店と連携して費用を折半し、お母さんが子供を預けて美容院に行けるようになっています。

 【三月九日青春食堂】は、佐久平の米粉うどんのお店です。築100年の店舗を改築したもので、夜は「九月九日ふくろう亭」という居酒屋になります。これも商店街の経営で、収益事業です。近くにある北佐久農業高校との共同で米粉のカレーうどんを作るなど、コラボメニューを開発しています。

 【商人(あきんど)甲子園】は、もう一つの空き店舗を利用した高校生のチャレンジショップです。商店街周辺にある三つの高校には食品科、機械科、電気科、デザイン科などがあります。それぞれ良い商品を持っているのに発表する場は文化祭だけ。不完全燃焼のようで残念でした。だったら商店街で発表する場を提供して、そういう実践の場で学んでもらおうというのが高校生チャレンジショップ(高校生の商人甲子園)なのです。いわゆる、手仕事村の高校生バージョンです。

 【起業家育成塾】は県の委託を受けた事業で、3名の若手の起業家をお預かりし、1年間、商店街で学んで起業してもらおうという事業です。彼らは給料をもらいながら学ぶことができます。何とか1年で彼らを起業させなければならないので、受託側にとっては厳しい事業ですが、何とか継続して2年目に入っています。

 商店街活性化に向けた喫緊の課題は、若手の人材育成につきます。そこで私たちは、町に戻ってきた後継者を対象にした【本町あきんど塾】、岩村田エリア広域の企業経営者を対象とした【岩村田あきんど塾】、さらに商店街での起業家の育成を目的とする【街なか創業塾】の3本の若手育成研修事業に力を入れているのです。


「佐久っ子ワオンカード」の導入


 また、電子マネーも導入しました。イオンと連携して、ワオンカードを商店街の中でも使えるようにしたのです。今、ワオンカードが使える商店街は全国に3カ所ぐらいあるのですが、商店街独自のポイントシステムを組み込んだワオンカードは、岩村田商店街が初めてです。将来的にはこれを市民カードとして、診察券、図書券、身分証明、スタンプラリー、子供の見守り隊や独居老人の把握等々に使えるようにしたいと思っています。これまでに7000〜8000枚のカードが売れています。

 商店街の50店のうち、実際にこのカードを導入したのは25軒です。

 カードを読み取る端末機は、補助金で無料です。ただ、間違えてはいけないのは、ワオンポイントが付くからといって、お店にお客さんが来て、直接的に売上が上がるということではありません。

 それでも、イオンのサービスカウンターに付いているキオスク端末のボタンを押せば、商店街の加盟店を案内する地図がプリントアウトされます。このような形でジャスコに商店街の広告をしてもらえるようになったことから、祇園祭でイオンカードの共同販売をしたり、共同チラシを出すなどの連携につながっています。


新法認定


 スタート当初の「おいでなん処」「おかず市場」、その後の「手仕事村」までは、地方自治体から空き店舗対策資金として2分の1の補助を頂いていました。その後のさまざまなイベントは、地域商店街活性化法でできた「空飛ぶ補助金」を使っています。これは平成21年に、私たちが国から1次認定をいただいたものです。


 平成17年、市に地域商店街活性化法の基本計画を申請してもらおうと、私たちは基となる基本計画を策定したのですが実現しませんでした。これを行政絡みではなく、自分たちがやりたい商店街単独の地域活性化構想へと改訂したのです。

 最初、佐久市では無理だと言われたのですが、地域商店街活性化法ができ、商店街独自の事業計画を経済産業省に上程して認定されれば直接当該団体に補助金が交付されることになり(空飛ぶ補助金)、私たちは認定を受けることができたのです。

 認定事業名は、「中山道 岩村田宿の歴史と文化を生かしたまちづくり活性化事業」です。地域通貨(電子マネー)の導入、高校生商人甲子園(当時は高校生のバトルショップ)、地域ブランド創生事業(商店街の目玉商品づくり)、「がんばれ商店街」川柳77選(長野県からの情報発信)、「将来の商店街を担う若手育成」研修事業の五つで、22年度は1億2000万円の補助を頂きました。

 国から3分の2の補助を頂くと、出さないと言っていた佐久市が6分の1の補助を出すといって条例を変えてくれ、さらに商工会議所からも、国や市と重複しない事業に対して補助していただけることになったので、自己資金は6分の1程度ですべての事業を行っています。それも、おかず市場等の収益事業の収益を原資に、地元の金融機関や商工中金、国民金融公庫(現・日本政策金融公庫)から10〜15年返済で融資を受けることによって、全部賄えるのです。


何のための商店街活動か


 最後に、何のために商店街活動をするのかについて話をさせていただきます。自分の店が忙しいからと、なかなか商店街活動の手伝いをしない若者もいます。しかし、私どもではきちんと話をして、一理事一事業制で参加していただくことにしています。強制ではありませんが、今までお話しした事業は、理事一人一人がそれを担当しています。これは人材育成なのです。忙しくとも、自分の会社の仕事をきちんとした上で、商店街の事業もできなければいけないのです。時間割も段取りも、すべては自分の能力次第だからです。

 商店街で商いをさせていただいている私たちは、商店街という環境の中でご飯を食べさせていただいています。ですから、商店街の環境を良くしていかなければ、自分たちは食べていけないことを、口を酸っぱくして言っています。

 商店街を耕せるのは、そこに住んでいる人、そこで商いをしている人なのです。今は選択と集中で、商店街に対する支援も様変わりしてきています。私たちはその変化に対応していかなければいけません。


 皆さまのお役に立ちたい一心で生意気を申し上げましたが、私は本気で日本の文化である商店街を存続させていかなければいけないと思っています。共にがんばりましょう。




※本稿は平成23年11月22日に富山県商店街振興組合連合会が主催したまちづくりセミナー(於:富山国際会議場)での講演内容を講師の了解を得て要約したもので、文責は編集部にあります。



●講師プロフィール
阿部 眞一氏
全国商店街振興組合連合会理事
長野県商店街振興組合連合会理事長
佐久商工会議所副会頭
有限会社和泉屋菓子店代表取締役社長

●岩村田本町商店街振興組合
 平成10年の長野新幹線佐久平駅開業が具体化。同駅から約1キロ離れたところに位置する岩村田本町商店街では、数年前から新幹線開業の影響を懸念し、危機感を抱いていた。
 平成9年には青年会メンバーを理事とする「岩村田本町商店街振興組合」を立ち上げ、若い力が集結し、商店街活性化策に取り組んでいく中で、「地域密着型」をコンセプトとして打ち出し、以降はコミュニティ広場の開設や惣菜店の開業など、手作りのまちづくりを進めてきた。
 徹底的な勉強を通じて、個店の魅力を高めるほか、子育てや歴史的なまちづくりなどを商店街が自ら発案し、地域住民の利益を考えたまちづくりを推進している。
 中小企業庁の「新・がんばる商店街77選」にも選ばれている。

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