会報「商工とやま」平成26年6月号

特集2 シリーズ/老舗企業に学ぶ12
富山ならではの和食を新感覚で、老舗の佇まいとともに
 八百松亭


 富山の旬の食材を使った料理とお酒を楽しめる新和風料理の店、八百松亭。元々は富山市総曲輪通りで旅館業として創業し、現在は女性にも人気の料亭として多くの方が訪れています。創業以来、119年の歴史を誇る同店を経営する飯野加葉子さんに、お話を伺いました。


明治28年に創業


 八百松亭は、明治28年に八百松旅館支店として創業したのが始まりです。本家の旅館から分家するかたちで、現在の経営者の飯野加葉子さんの祖父の代から、総曲輪の今の場所で旅館業を始めました。

 加葉子さんの父で2代目の竹男さんは大正2年生まれ。東京大学の国文科で学び、卒業後の数年間は福島県の白河で学校教師として勤務していました。その後、太平洋戦争に招集され、戦地にいる2年の間に竹男さんの父母は亡くなってしまいます。その間は、遠縁の親戚の方が旅館を守っていたそうです。

 竹男さんは帰還後、美葉子さんと結婚し、昭和16年には長女の加葉子さんが誕生。しかし、加葉子さんが美葉子さんのお腹のなかにいるときに竹男さんが再び招集され、戦地で4年間を過ごすことになりました。


富山大空襲の恐怖


 そして、昭和20年の富山大空襲の日、加葉子さんはまだ3歳。断片的ですが、8月2日の真夜中の出来事を鮮明に覚えているそうです。

 「父は戦争に行っていて、母はギリギリまで旅館の仕事をしていました。旅館の前で、リアカー七台に荷物をまとめて、まさに疎開しようとしていたところで空襲に遭ったんです。母によると、幼い私でしたが、空襲警報が鳴るなかでさっと起きて、とても助かったとか。子どもながらに、恐怖心があったんでしょうね。

 私は従業員の背中におんぶされて母と逃げたんですが、憲兵か誰かに、逃げるなと押し戻された瞬間からの記憶が、そのときの恐怖で鮮明に残っています。

 焼夷弾は落ちると、バーッとねずみ花火のように走るんです。最初は神通川の土手にあった防空壕に逃げたのですが、誰かが、こんなところにいたら死ぬから出なさいと言われて出ました。子どもを置いていこうとしたあるお母さんを、私の母がものすごく叱ったこと。橋を渡った先で水を飲んだことなど、いろんな場面を断片的に覚えていますね」

 富山大空襲で旅館は焼失し、周辺で残ったのは、大和の建物ぐらい。しかし、家族は無事でした。父の竹男さんも無事帰還し、富山県内の高校へ教師として赴任します。当初、旅館は主に、加葉子さんの母の美葉子さんが切り盛りしていたそうです。


大勢の人で賑わった総曲輪通り


 戦後の復興とともに、富山の中心街は再び活気を取り戻します。加葉子さんは、子どもの頃の総曲輪の様子について、次のように語ります。

 「現在、店の正面は国道41号線になっていますが、国道ができるまでは、うちの前は路地だったんです。総曲輪通りは長くつながっていて、大変な賑わいでした。荷車を引いた馬車が通っていて、少学校に行く際に、よく馬車の後ろにつながっては、先生に叱られたものでした」

 お城に向かって地形も平坦ではなく、東別院などもちょっと高台にあったとか。現在、ANAクラウンプラザホテル富山のある場所には、かつての小学校があり、加葉子さんも、そこに通っていました。

 また、戦後は、竹男さんによって、3度ほど八百松旅館は建て替えられたと言います。いずれも日本建築で、とても凝った作りの建物だったそうです。今でもその一部が残され、総檜の通し柱の部屋などが、客室として使われています。


加葉子さんも旅館業へ


 加葉子さんは富山大学附属中学校、富山中部高校を卒業後、青山学院女子短期大学の家政科で学びます。たまたま選んだ学科だったと語りますが、そこでは栄養学や洋食など、当時の最先端の「食」を学びました。

 しかし、生まれ育った富山の街や食が大好きで、東京の暮らしには馴染めなかったとか。そして、子どもの頃から、将来は家業を継いで、旅館を大きくしたいと考えていました。

 卒業後は、すぐ富山に戻り、本格的に旅館業を手伝うようになります。また、仕事の傍ら料理教室などに通ったそうで、その経験は、今も献立づくりに大いに活かされています。


富山の旬と心づくしのサービスの宿


 八百松旅館での名物は、富山ならではの食材を使った料理でした。お部屋に食事を提供することを基本とし、お客様の靴を磨き、ズボンをプレス、靴下を洗ったりと、昔からのサービスを当たり前に、大切に守っていた正統派の宿だったと言います。

 「うちは13室の小さな旅館でしたが、京都の呉服屋さんが、富山の呉服屋さんに仕事で来られた際に泊まられることが多かったですね。そういったお客様にはやはり、富山の旬の魚や、富山でしか食べられないものをと、いつも心がけてお料理をお出していました。好みは人によって様々で難しいこともありますが、今のお店になってからも、その思いはずっと、変わらないですね」


平成元年、八百松亭にリニューアル


 若い頃の加葉子さんは、保守的だった父の竹男さんとぶつかることも多かったそうですが、時代の変化に伴い、徐々に旅館のあり方、従業員の働き方(パートを53年前から採用するなど)も変わっていきました。

 「同じ会社の方であれば相部屋が普通だったものが、だんだん個室が求められる時代になり、また、旅館の従業員は住み込みが基本だった時代から、やがて通いに変わっていきました。そして、昔ながらの旅館に泊まる方は減っていくなど、様々な変化がありましたね」

 竹男さんは昭和62年に亡くなり、加葉子さんは新しい店づくりに着手します。そして、旅館業を休業し、料理店へと大幅に改築。平成元年12月に、現在の八百松亭をオープンしました。

 41号線に面した店舗はモダンな鉄筋コンクリート打ちっぱなしの建物に生まれかわりました。旅館の趣のある建物も残しながら、富山らしい、新たな和食文化を、ここから発信していくことになったのです。


豊富なお酒と富山の旬を気軽に


 八百松亭がオープンして、今年で25周年。気軽なランチから、会食、宴会、そして冠婚葬祭など、様々な用途で利用でき、女性達にも人気のお店となっています。

 富山の人気地酒6種類が飲み比べできるメニューなどがあり、豊富な日本酒と富山らしい食材を使った料理が楽しめます。懐かしくも新しい独自のメニューと、それを彩る上質な器は、加葉子さん自身が決めているそうで、女性が一人でも気軽に入ってお酒と料理を味わうことができる店づくりとなっています。

 富山の旬の魚をふんだんに使った富山の味自慢コースや、海鮮ちらし寿司がおいしい「花舞」などの多彩なメニューがあり、どれも富山の食材に余計な手を加えず、素材を生かした料理を提供しています。また、2千円以上のコースを頼めば、2名様以上で和室の利用も可能です。 

 見事な赤壁の部屋、総檜づくりの部屋で、お庭を眺めながらくつろぐひととき。友達や家族で、ゆっくりするのも、いいものです。

 日常の慌ただしさと富山のまちの中心であることを忘れる、静けさと落ち着きは、まさに別世界へと誘ってくれます。


再開発であたらしい総曲輪へ


 現在、八百松亭のある総曲輪西地区では再開発事業が進められ、今後一帯は、ホテル、映画館、住宅、立体駐車場などからなる複合施設が建設される予定です。

 再開発ビルの建設が進めば、八百松亭は閉店予定とのことですが、父の竹男さんが丹精込め、様々な細工が施された美しい総檜づくりの和室の部分だけは、なんらかの形で残せたらと話す加葉子さん。

 時代とともに変化し続ける総曲輪で、八百松亭は今や、かつてのまちの面影と、富山らしい味を伝える貴重な空間です。富山の地のものにこだわった料理とともに、懐かしさや優しい心遣いがそこにはあります。

 ずっと心にとどめておきたい老舗へ、大切な方と出かけてみませんか。


八百松亭
富山市総曲輪3-9-10
TEL:076-421-7515
定休日・火曜
営業時間 11:00〜22:00(LO 21:30)
・2名様から70名様まで。
 個室、掘りごたつ、テーブル・イスをご用意できる部屋もあります。
・お部屋でのお料理は、昼2,000円(税別)、夜3,000円(税別)から。
・20名様以上の宴席の場合、幹事さん(1名様)お料理半額サービスあり。
※いずれも価格はご確認下さい。

●主な歴史
明治28年 八百松旅館支店として創業
平成元年  八百松亭として開店。旅館は休業。