会報「商工とやま」平成26年11月号

特集2 シリーズ/老舗企業に学ぶ
地域の身近な存在として、心の通ったサービスを
 佐伯商会(富山サイクル佐伯)


 富山市のまちなかで自転車販売業を営み、創業以来101年の歴史を刻む佐伯商会。子どもから大人まで、人々の暮らしに欠かせない自転車。さまざまな時代の波を経て、最近、再び自転車への注目度が高まり、自転車に乗る人が増えてきています。

 今回は、一世紀にわたり地域に密着し、きめ細かなサービスを提供している佐伯商会代表の佐伯清さんにお話を伺いました。


イギリス製輸入自転車を販売


 佐伯商会は現代表の佐伯清さんの祖父である佐伯勝次郎さんが、大正2年に富山市神通町で創業しました。

 「佐伯家は富山市八町の農家で、大地主の分家でした。しかし、祖父の勝次郎は農家を継ぐのが嫌で、役場に勤めたり、じんだはん、つまり、いまで言う警察官などをしており、サーベルを下げた写真も見たことがあります。その後、まちなかに出て、イギリス製の輸入自転車の販売を始めたのが当店の始まりです」

 輸入物の自転車はかなりの高級品で、顧客は村長や医者など、有力者という時代。そして、明治23年生まれの勝次郎さんは当時まだ23歳。最先端の商品であり、ステータスでもあった自転車に着目した、新時代の若者でした。その後、富山市大手町(当時の町名は総曲輪)へと店を移転します。

 「大手町はかつて、市役所や郵便局などが集まる、まちのメインストリートで、後に建てられる旧市民病院の隣に店舗兼自宅がありました。祖父はとても面白い人で、戦前からバイクに乗っていたような、ある意味やんちゃな人。先見の明があり、順調に店を営んでいたようですね」


銀行員から、戦地の最前線へ


 しかし、昭和16年に太平洋戦争が勃発。勝次郎さんと妻のひささんとの間には8人の子どもが誕生していましたが、四男の憲三さんが招集されます。

 「父の憲三は銀行員でしたが、20代前半で軍隊に入りました。最初は仙台の陸軍士官学校で学び、その後、少尉として丹波篠山の連隊へ行ったんです。憲三と母の登美子が知り合ったのは銀行員時代で、母は、父が勤めていた銀行の支店長の娘で、恋愛結婚でした」

 その銀行とは、現在の北陸銀行の前身ではないかと話す清さん。憲三さんと登美子さんは、戦争中の昭和19年に結婚しました。

 憲三さんは2500人の連隊の副官、中尉としてソロモン諸島の最前線で指揮を執ります。しかし、アメリカ軍の戦闘機・グラマンの機銃掃射で全身に弾丸を受け、最後の病院船でマニラの陸軍病院に送られたと言います。そこで、手術を受けることができ、九死に一生を得ました。その後、連隊は玉砕し、わずか12人の方が生き残ったのみだったとのこと。憲三さんは日本に帰還することができました。


富山大空襲で奇跡的に助かる


 「戦中、祖父の勝次郎は店を守っていて、戦前は自転車組合の2代目理事長もしていたようです。

 八町の実家のそばには当時、倉垣飛行場があり、そこが空襲されるかもしれないというので、ほとんどの家財道具や自転車、部品などを大手町の店の方に運んでいたそうなんです」

 昭和20年8月1日から2日未明の富山大空襲で大手町の店舗兼住居は全焼。焼夷弾が雨のように降るなか、勝次郎さんは松川に逃げ、妻のひささんは富山城のお堀に入って布団を被り、憲三さんの妻の登美子さんと憲三さんの妹は、近くの防空壕に入るなどして、大手町にいた家族は奇跡的に全員助かりました。登美子さんは現在92歳で、いまもご健在です。

 憲三さんは鹿島灘の守備隊としてアメリカ軍の上陸に備えていたところで終戦となり、焼け野原となった富山のまちへと帰ってきました。


焼け跡でバラックからの再建


 八町の家は無事だったため、いったん一家は八町へ避難し、終戦後は焼け跡に6坪のバラックを建てるところから再スタートします。憲三さんは銀行に戻るつもりでいましたが、勝次郎さんは突然隠居を宣言し、憲三さんに店の再建を任せ、八町で米づくりを始めたと言います。

 「後に、その土地に住んでいない不在地主は、すべての農地を没収される農地解放となりましたから、祖父はもしかしたら、それを知っていたのかもしれません。祖父のお陰で一町歩の田んぼは残ったんですね」

 戦後の焼け野原から店を再建した憲三さん、登美子さん夫婦。まったくの素人ながらも自転車・バイクの販売修理、卸売業へと手を広げ、その苦労は並大抵のものではありませんでした。

 「母にはよく、多少、商売に波があっても、『あの頃に比べると全然甘いよ』と言われたものです。確かにそうだなと思いますね」

 そして、昭和24年には、清さんが誕生します。店は軌道に乗り、住み込みの店員が3人程いて、清さんは兄弟のように生活を共にしていました。昭和38年には、現在の山王町へと移転し、鉄筋コンクリート3階建ての現在の店舗が完成。店の前の道路が国道41号線に昇格する以前のことで、夫婦があちこち探して見つけた場所だったとか。現在では大和もさらに近くなり、多くの方が買い物途中に訪れる、絶好の立地となっています。


店の継承、心の通った専門店へ


 清さんは元々は弁護士志望でしたが、ちょうど学生運動が盛んな頃で母親の反対があり、大学卒業後は大阪の松下電器の系列会社に勤務していました。しかし、父親の憲三さんが病気のため56歳で急死し、会社を辞めて家業を継ぐことを決意。昭和51年、26歳のときでした。

 「親戚からは会社を辞めるのはもったいないと言われましたが、もうこれはしょうがないと。最初は見よう見まねで仕事を覚えていきました。やってみると意外と面白かったですし、早く仕事を覚えられたんです。ただ最初の頃はよくパンクの修理などで失敗したものでしたね」

 清さんもまた、ゼロからの出発となりましたが、翌年の昭和52年には明子さんと結婚。以後、夫婦で共に助け合って地道に経験を積み重ね、多くのお客さまから信頼される専門店へと、新しい佐伯商会を育てていったのです。

 「当店では、どこで買われた自転車であっても、対応できるメーカーのものは分け隔てなく修理し、当店でご購入いただいたお客さまにはプラスアルファのサービスをしています。必要な方には代車の貸出しもしていますよ」

 自転車専門店ならではのきめ細かなサービスをモットーにする清さん。その評判は口コミで広がり、お店には次々とお客さまが訪れ、多くの方が頼りにする人気店となっています。


サイクリングブームの到来


 自転車は一時衰退した時代がありましたが、昭和40年代半ばには20インチのミニサイクルが登場し、女性の利用者が爆発的に増加し復活しました。

 そして、最近では、健康志向や環境問題への意識の高まりなどから、自転車に乗る人が増えてきていると言います。自転車もオートライトやLEDライト、電動自転車など、さまざまに進化。また、サイクリングブームや「グランフォンド富山」などの人気もあり、クロスバイクやスピードを競うロードバイクの愛好家も増えています。自転車を選ぶ際は、その方の用途によってアドバイスしているそうです。

 また、清さんは、富山市サイクリング協会の設立に参加し、現在は、毎月1回、県内各地をサイクリングする「おにぎりサイクリング」を開催して、小学生から70代まで30〜40人ほどの人が参加されています。健康志向の方や退職された方が新たな楽しみにされている場合も多いそうです。


富山の観光にも日本製自転車を


 そして、富山県自転車軽自動車商業協同組合の副理事長を務める清さん。新幹線開業を控え、修理が簡単な日本製の自転車が貸出しできるようになると観光がさらに便利になると話します。また、一般の人が停める市営の駐輪場がもっと増えると、まちなかの移動がさらに便利になるとも。

 「金沢でも観光用に日本製の電動自転車を貸し出すシステムがありますし、ヨーロッパなどでは、都市化すればするほど自転車文化が発達しています。自転車は都市の交通も医療費も環境問題も解決できる最高の道具。日本にももっと、自転車文化が根付いてくれるといいですね」 

 そして、地域密着型産業として、少しでも地域に貢献できるようにしていきたいと話す清さん。

 「自転車業は販売だけでなく、パンクの修理など、実に細かな仕事が多く、地道に努力し、信頼を積み重ねることが大切です。プロ意識を忘れず、いつでも多くの方の暮らしに役立つよう、心の通ったサービスを目指したい」と語ります。

 自転車業界も後継者不足で店舗が減っているとのことですが、確かな技術できめ細かなサービスを提供してくれる地域の自転車屋さんは、なくてはならない存在です。

 自転車を通して、人の暮らしを温かく見守る佐伯さんのようなお店が、これからも永く続き、次世代へと受け継がれていくことを願ってやみません。


佐伯商会(富山サイクル佐伯)
富山市山王町5−31 TEL:076-421-2517
午前8時〜午後7時30分まで営業
第1・3日曜休業

●主な歴史
大正2年 初代 佐伯勝次郎さんが創業
昭和20年 二代目 憲三さんが継承
昭和51年 三代目 清さんが継承