会報「商工とやま」平成26年8・9月号

特集 
一世紀のその先へ、若い力で躍進を続ける
   昭北ラミネート工業株式会社


 医療用包材やラミネート電池用包材などの幅広い分野で多くの製品を送り出し、創業以来、100社以上との取引で、111年の歴史を誇る昭北ラミネート工業株式会社。近年では、ジェネリック医薬品の需要の高まりとともに大きな躍進を続けています。

 富山の薬の歴史とも密接に関連し発展を遂げてきた同社の歩みについて、代表取締役会長の中川宏一さんと、代表取締役社長の中川雄介さんにお話を伺いました。


明治36年に創業


 昭北ラミネート工業株式会社は、明治36(1903)年、富山市柳町で初代の中川善四郎さんが中川製缶所を創業したのが始まりです。中川会長は次のように語ります。

 「大阪でたばこを入れる缶を作っていた専売公社の前身が、古い機械を払い下げるときに手を上げたのが二代目の中川善次郎だったと父から聞いています。善次郎は越中売薬の薬を入れる缶を製造するために機械を購入したようです。

 しかし、善次郎は志半ばで病に倒れて亡くなったため、初代の善四郎が復帰して商売を盛り立てました。

 残念ながら昔の資料は空襲で燃えてしまい何も残っていないのですが、廣貫堂さんの資料館には、かつて当社で作っていたアルミの薬缶が展示されているんですよ」

 大正時代の富山市市街地の地図を復元したものには、中川製缶所の名前があります。また、中川会長の祖母は武内プレス工業創業者の武内宗八さんと親類関係だったそうです。共に富山の薬とともに発展を成し遂げてきた企業です。

 善四郎さんは昭和2年に亡くなり、善四郎さんの六男で現会長の父の滋二郎さんが三代目として事業を継承しました。その後、中川製缶所は昭和8(1933)年に柳町から下奥井に工場を移転します。

 「取引先である富山化学さんのご依頼で、柳町から缶を運ぶ時間的な無駄を省くため、富山化学さんの横に工場を移転したのです」

 そして、昭和11(1936)年には、現会長の中川宏一さんが誕生。さらに昭和16(1941)年には奥田本町に工場を移転新築しています。


空襲で工場は全焼


 富山大空襲のちょうどその日、宏一さんは八尾の疎開先から奥田本町の自宅に戻っていたと言います。

 「あの日のことは今でも忘れられないですね。爆弾と焼夷弾がものすごい量でした。奥田本町にあった工場は全焼し、自宅にも火が着きましたが、母や社員がバケツリレーで消して自宅はなんとか残りました。 

 父の滋二郎は、星井町の在郷軍人会に詰めていて体に焼夷弾が当たり、服は全部燃えて火傷を負いました。私はまだ小学4年生でしたが、『お手伝いします』と言って、富山中部高校に運ばれていた父のもとへ、焼け野原のまちを荷車を引いて迎えに行ったんです。

 運がよかったんでしょうね。看護婦さんが用意してくれた薬のお陰で父の火傷も治りました。焼夷弾がまともに当たったり、神通川や松川に入って亡くなった人が大勢いましたから。富山駅そばの空き地に焼け焦げた遺体がたくさんあったことも忘れられません。

 自宅はタイル張りで当時としては少しモダンな建物でしたから、終戦後、進駐軍に接収されそうになりましたが、幸いそれも免れました。庭に埋めていた壺に入った現金の助けもあり、工場は再建できたんです」



中川プレス工業へ


 昭和26(1951)年には中川プレス工業株式会社として組織と社名を変更しました。

 宏一さんは昭和34(1959)年に慶應義塾大学を卒業後、医薬品メーカーの三共に就職。外国部輸入課で海外の薬を輸入する仕事に携わります。輸入した薬は大いに売れ、多大な利益をもたらしたそうです。まさに好景気となったところでしたが、約2年半の勤務後、富山に帰郷しました。

 「とにかく親への恩返しだけはしなければという思いで戻ってきましたね。しかし、帰ってきた頃はすでに、薬の缶だけでは先が見えていました。そこで、大学時代の先輩が創立した北陸コカ・コーラさんにご紹介いただき、日本コカ・コーラさんのノベルティを作るお仕事をいただけるようになったのです。

 東京オリンピック前後だったでしょうか。プレスで絞った丸いものですが、当時は、当社以外にはどこでも簡単には作ることができませんでした。当社には戦時中に買った大きな500トンほどのプレスがあったおかげでできた仕事です。そのノベルティは全国のボトラーさんに本当によく売れました。お陰で当時の借金を全部返すことができたんです」



昭北ラミネート工業株式会社へ


 その後、昭和51(1976年)に、現在の飯野に工場を新築移転し、社名を昭北ラミネート工業株式会社に変更。昭和アルミニウムの技術援助を受け、アルミニウムの加工箔の製造をスタートさせました。

 「大学時代の同級生の父親が当時の昭和アルミニウムの社長で、アルミ箔で、富山の薬の分野で使ってもらえるものを作りたいとお願いに伺いました。

 オイルショックの当時、最初はお叱りを受けましたが、熱意が伝わったのかお許しをいただき、技術援助を受けることができました。そのご恩を忘れないという意味で、社名を変更したのです。現在その会社は昭和電工パッケージングとなり、現在も変わらずお取り引きいただいております」

 座右の銘は、「不将不迎(過ぎたことを悔やんだり、まだ来ない先のことを、悩んだりしないこと)」、そして、「ネバーギブアップ」と語る会長。その言葉通り、幾多の困難を強い心で乗り越え息子の雄介さんへと事業を継承していきました。


ジェネリック医薬品の包材で躍進


 アルミの加工箔は医薬品や食品などの分野で使用されますが、医薬品用のアルミの加工箔を製造できる会社は日本でも数少ないそうです。

 昭北ラミネート工業は、ジェネリック医薬品の錠剤のラミネート包装に使われる「PTPアルミシート」の分野で近年躍進を続けており、特許も取得。昨年は第2工場が完成し、新規マシンも増設しました。

 そして、平成19(2007)年から代表取締役社長となった中川雄介さんによる新しい体制の下、昨年の年商は26億円と大きく売上を伸ばしています。


メーカーとしての挑戦


 中川社長は立教大学を卒業後、大手自動車メーカーに勤務し、平成6(1994)年に帰郷。経営への思いをこう語ります。

 「まずは、メーカーになること。下請けだけではなく、直接、製薬メーカー様ともお取り引きできる仕事を増やすことが一番の目標でした。がむしゃらにやってきたことがようやく形になったのが、7、8年前。お陰様で年商は20年前の5倍となっています。

 大きな改革としては、営業スタッフを大幅に増やして強化し、生産と販売管理の徹底的なシステム化を進めたことです。システム開発の経費を節約するため、私、自らがプログラムを作成しています。設備の増設や増産のたびに更新が必要ですから、いまも夜中にシステムを組んでいます」

 会長自身もかつてマシン用のプログラムを作成したそうで、その才能は確かに受け継がれています。

 そして、自身を楽天家と語る中川社長。「捨てる神あれば、拾う神ありで、いろんな人に助けてもらいました」と振り返ります。困難を乗り越え、前向きで物腰柔らかなトップセールスで同社を発展へと導きます。

 「営業スタッフにも、余程のことがない限り、好きにやっていいよと言っています。しかし、決して飛び込みでいただけるような仕事ではありません。製品の信頼性と安定供給が一番大切。また、お客様への迅速で柔軟、きめ細かな対応も欠かせません。これはもともと当社にあった文化であり、強みでもありますね。

 そして、どこに行っても、多少なりとも当社の名前を知っていただけているのは、やはり先代までが長年、地道にやってきたからこそ。信用は簡単に作れるものではありません。これまでの会社の歴史に心から感謝しています。

 今年で当社は111年になりますが、現在、社員の平均年齢が32歳前後と、とても若い会社です。ここ数年の急成長で若い人たちが入社し、社員は約100名です。各部門で頑張ってくれている社員には本当に感謝していますし、今後は、年商50億円を目標にしていきたい」と、力を込めます。

 医薬品業界も刻々と変わり、PTPの分野でも変革期を迎えています。医療用の錠剤のアルミ包材は、今年中にバーコード印刷が義務づけられます。今後、さらに高機能製品が求められていくことでしょう。

 中川社長は東京、大阪にも営業所を開設し、本社には開発部門を設けるなど改革を続けています。111年を超えて、さらに若さあふれる企業として、次の躍進へとリーダーシップを発揮しています。


昭北ラミネート工業株式会社
本社工場 富山市飯野1番地の1
電話076−451−7466
●主な歴史
明治36年 初代中川善四郎さんが創業。
大正元年  二代目善次郎さんが継承
昭和2年  三代目滋二郎さんが継承
昭和58年 四代目宏一さんが社長に就任
平成19年 五代目雄介さんが社長に就任


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