会報「商工とやま」平成27年12月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ21
「毎日を最高に」富山城址公園そばで店を営み一世紀 (有)城麓 沢田屋酒本店


 富山市丸の内で酒の小売店を営む沢田屋酒本店。富山城址公園のお堀の目の前にあり、まちの中心部で一世紀にわたり人々に愛されてきたお店です。三代目で同社代表取締役の澤田俊一さんと妻の春美さんにお話を伺いました。


大正3年に創業


 沢田屋酒本店は大正3年に初代の澤田卯二さんが創業。妻のトメさんらとともに、はじめは味噌、醤油を販売していました。
 「いまでも徳利が残っていますが、それに醤油を入れ、いくつも荷車に載せて売り歩いたものでした。醤油や味噌は市内で仕入れたものを取り扱っていました。しかし、近くの工場が高齢化などで閉鎖されたため、現在は八尾から仕入れ、販売しています。
 また、最初の店は現在の場所ではなく、筋向いにありました。でも、そこは南向きだったため日があたって品物が傷むからと、今の場所に引っ越してきたと聞いています。酒の販売を始めたのは、定かではありませんが、おそらく戦後ではないか思います」と俊一さんは話します。


空襲で家族全員が助かる


 社長の俊一さんは昭和8年生まれ。二代目の直久さんと妻のスミさんの間に長男として誕生しました。いまの富山市役所の前にあった総曲輪小学校を卒業。富山大空襲に遭ったのは、中学1年の頃でした。
 「家族や親戚を合わせて9人ほどが家にいました。私は名古屋から疎開していたおばあちゃんの手を引いて中部高校に逃げ、ほかの家族もばらばらに逃げて全員助かったのです。防空壕に入った人は皆、亡くなってしまったので、本当に幸運だと思います。磯辺の堤防では兵隊さんがたくさん亡くなっていましたね。
 焼け跡のグラウンドを見ると、ほんの30センチ間隔ほどで焼夷弾が落ちていました。毎日、神通川の河原でご遺体を焼いていた風景を覚えています」
 焼け野原となった富山市の中心市街地。大和の建物も残ってはいましたが、中は焼失しています。
 「一旦は、蔵が助かったと見に戻ったのですが、やはり火が入っていて、あとで燃えてしまいました。蔵には親戚中から預かった荷物が入っていたため、3〜4日は燃え続けました。火が消えた後で、祖父と母が、何枚か缶に入れて埋めていたお金を掘り出していました。黒こげになっても原型をとどめているものは、金沢に行って新たに現金にしてもらえたのです。家財道具は何もなく、お見舞いには欠けた茶碗を一つだけもらいました」
 妻の春美さんはその頃、7歳。高岡から砺波に疎開していました。砺波から見える富山市上空は真っ赤に燃えて、「まるで花火を見ているようだった」と振り返ります。


商売を継ぐため奉公に


 戦後の混乱期を乗り越え、俊一さんは中学を卒業後、富山商業高校へ進学。そして高校を卒業すると、当時の清水商店(現在のスクールエー)に勤めました。
 「昔は商売の基本を覚えるため、まずは外に奉公に出るのが常でした。清水商店では呉服や制服などを扱っていて、私も入善、上滝、八尾、高岡など、県内のあちこちの得意先を回っていました。物のない時代ですから、品物が飛ぶように売れ、行く先々の呉服店などで、ごちそうになったり、歓待してもらったこともあります。約3年半勤めて辞め、家業に入りました」


高度経済成長期に結婚


 俊一さんが家業に入った昭和30年頃は、高度経済成長期。どの商売も景気がすこぶる良い時代です。倉庫に山ほど積んだお酒も、1ヵ月でパッと売れてしまうほどでした。
 そして、昭和37年に俊一さんと春美さんは結婚。春美さんの実家も高岡で食料品店を営んでいました。
 「昔は、嫁をもらうなら高岡からもらうのが一番と言われていました。しっかりものの高岡商人の娘をもらったら、宝くじに当たったようなものです」
 そして、春美さんは結婚後、想像以上に忙しい毎日を送ることになります。
 「親から最低でも1ヵ月は身なりをきちんとするようにと言われていましたが、当時は自転車で配達するので、1週間程で、身なりを気にしている余裕は無くなりました。娘がお腹にいても、生まれる寸前まで配達を続けましたね」
 2人の間には2人の娘さんが誕生。そして、365日、元旦や葬式でも店を休まず、宴会や食堂、飲食店、そして個人のお客さまへの日々の配達や注文取りなど、とにかく忙しく働き続けてきたと言います。
 「最近では若い人に配達を任せていますが、結婚以来ずっと忙しく、いまに至ります」と笑う春美さん。どんなときもお互いを支え合い、様々な出来事を乗り越えてきました。


コンビニを開店


 その後、俊一さんはコンビニの経営に乗り出します。
 「約18年前に、上冨居でチックタックを開店。その後、サークルKに変わり、現在はローソンを営んでいます。いまと違って、当時は店の建設費から看板、備品まで、費用はすべて自分たちで負担しなければならず、とても大変でした」と振り返ります。
 現在は娘さんがコンビニを担当。本店と同様、酒やたばこを販売していて、たばこの販売はコンビニと本店を合わせて富山県で一番になったこともあるそうです。


お店独自の多彩なサービスを


 コンビニやドラッグストアでもお酒が買えるようになったこと、嗜好の多様化、健康志向の高まり、飲酒運転の厳罰化によって、酒屋でお酒をまとめ買いする人は減りました。
 そうして、近所にあった酒屋が次々と店を畳むなかで、沢田屋酒本店では、サービスにもいろいろと工夫を凝らしています。
 イベントや宴会などには生ビールサーバーやグラスの貸出しを。会社のリクリエーションなどには、ビールやワイン、ジュースなどを入れたアイスボックスを準備したりと、多彩なサービスが好評です。
 「いまもグラスは無料で貸し出して、こちらで洗っていますが、こういうサービスをする店も少なくなりましたね」


富山の地酒や高級酒が人気


 店内には県内外の日本酒やウイスキーの高級品、ワインなど、数多くの商品が並びます。最近は、近くのホテルに宿泊する国内外の宿泊客などが、竹鶴などの高級ウイスキーや富山の地酒を買い求めに来店することも増えたそうです。
 「富山の蔵元も工夫をして、最近はいろいろな種類のお酒を次々と出していますし、純米酒など、質の高いお酒や、変わったラベルのお酒も人気ですね」


毎日を最高に


 俊一さんは独身時代から児童クラブの委員長を務め、体育協会や交通安全協会の会長なども歴任し、地域のために力を惜しまず貢献してきました。「役をしていないのは婦人会と老人会だけ」と笑います。
 「昭和8年生まれなのですが、知り合いから聞かれたら、いつも昭和18年生まれと答えています」という通り、いまもとても若々しい俊一さんと春美さん。若い頃の俊一さんの目標は「毎日を最高に」でした。
 「とにかく一所懸命注文を取って、売上を伸ばそうと走り回ったもの。いまは若い人に任せていますが、まだまだ頑張りたいですね。
 徳川は300年続いて潰れましたが、うちのような零細企業でも100年続けられました。やっぱり、200年は続けたいと思うのです」と力を込めます。そして、これまでを振り返り、次のように語ってくださいました。
 「以前、NHKからの取材で、亡くなった母がお宝について聞かれて、お客さんの台帳を見せたことがありました。本当にその通りで、私たち2人でできることは何もなく、いつも多くの方に助けられ、お客様や、すべての方のお陰で現在があるのです」
 いつも前向きに、お店を続けてきた澤田さんご夫妻。持ち前の明るさ、勤勉さ、探究心、そして何より仲の良さが、永く続けてこられた一番の秘訣なのではないでしょうか。  今年のお歳暮シーズンには、沢田屋酒本店さんに相談して、大切な方にとっておきのお酒を送ってみませんか。


有限会社城麓 沢田屋酒本店
富山市丸の内3−2−2
TEL:076−421−5144

●主な歴史
大正3年に初代、澤田卯二さんが富山市で創業
二代目直久さんが継承
昭和27年に三代目俊一さんが継承
本店の他、コンビニも経営