会報「商工とやま」平成28年2・3月号

シリーズ/おじゃましま〜す
 当所商工業・物流委員会委員長  澤田 悦守 氏
(当所監事・富山中央食品株式会社代表取締役社長、北陸中央食品株式会社代表取締役社長)


 富山商工会議所の活動を支えていただいている委員長の皆さんを訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


何もない戦後の復興時に起業


 先代の父・澤田要作が、終戦により復員後の昭和21年に今の総曲輪通りの一角で乾物、缶詰、漬け物などを扱う小売店を開業したのが当社の始まりです。  その後、卸部を併設して販路を拡大し、昭和25年には法人化。大手食品加工メーカーとも提携するなど富山の食料品の供給拠点となるべく卸売業の専業とし、本社を桜木町に移転してさらなる発展を目指したのです。  その最中の昭和23年、長男の私が生まれました。この後、弟と2人の妹が誕生しますが、両親が長男である私に寄せる期待は大きく、それに応えようと必死でした。  いつも父や母の背中を見て商売の勉強をしていたので、ゆくゆくは父の事業を継ぐのだと、ごく自然に思ってました。ですから、自分が尊敬するのは、父と母なのです。 

大量生産、大量販売、大量消費方式


 昭和40年代に入ると、食料品の小売業態にスーパーマーケットが登場してきますが、父はいち早く県内導入へと動き出しました。私が小学6年生の時に、父は友人と二人で視察のためアメリカ一周へと赴きました。  その頃のアメリカではスーパーマーケットがブームになっており、いずれ日本にも、そして富山にもセルフサービス方式が入って来ると感じ取ってきたので、帰国後、さっそく地元の食料品店の社長さんたちにアメリカの様子を紹介して、賛同した20店程でチェーン店を組織し、スーパーマーケットを始めました。  それを契機に、大量生産、大量販売、大量消費の波に乗り、会社はさらに成長していきました。

日本の20〜30年先を行くアメリカのスーパーマーケット


 父はアメリカで相当な刺激を受けてきたらしく、私が中学、高校、大学と進む中で、「お前もアメリカで勉強して来い」と言われ続けました。だんだん自分もその気なって、大学を卒業してからアメリカの大学院に進学。おかげで、アメリカの最先端の流通事情を勉強することができました。  アメリカの流通業は日本より20〜30年先を進んでおり、いずれは国内にも大手に成長するスーパーが現れるだろうと予感してましたから、それまでに問屋は何を準備しておくべきかを考えた2年間となりました。

環境変化の速い流通業界


 卒業後は、語学を活かして世界を舞台に仕事をしたいと思い、商社に入社しました。当時は社会主義のブルガリアに駐在して、アメリカとは全く異なる社会環境の中で、貴重な経験ができました。帰国後は、日本にある外資系の経営コンサルタント会社に半年ほど籍を置きました。ここでは、日本の大手企業が海外に進出する戦略をどのように構築するのかを目の当たりし、その後の経営に役立てることができたのです。  そして、昭和52年4月に富山へ戻り、父の会社に入りました。当時は県外スーパーの参入や地元スーパー同士の競争が激しさを増す中で、卸売の当社は大変厳しい経営環境にありました。入社後は配達などの現場仕事から始めて、一から学び直す気持ちで必死でした。  流通業を取り巻く環境変化は速いので、いろいろな人と相談しながら判断を誤らないように迅速な対応が重要でした。

困難に挑んでいく姿勢を持って


 これからの流通業は、過去に経験のない人口減少があって、とても厳しい経営環境になるでしょうから、今までと同じことをやっていては売上は落ちるだけです。どんな業種でも同じでしょうけど、これからの時代にふさわしい新しい事業を構築していかねばなりません。  私は常に全力投球、何事に対しても一所懸命が信条です。若い経営者の皆さんには、どんな困難にも逃げたりせず、挑んでいく姿勢で臨んで欲しいと思ってます。たとえ、その結果が良くなくても、また知恵を絞って修正を図ればいいのです。  あわせて、私の父がそうであったように、社員や得意先の皆様への感謝の心、おかげさまの心を大切にして欲しいと思うのです。(談)



▼機関紙「商工とやま」TOP