会報「商工とやま」平成28年10月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ27
若手が受け継ぎ、拓く、次の建具へ 山本建具


 富山市新庄町で、100年にわたって建具店を営んできた山本建具。三代目で代表の山本一さん、妻の恵美子さんにお話を伺いました。


大正5年に創業


 山本建具は、初代の山本直太郎さんが大正5年に創業したのが始まりです。元々の建物は現在の工場のすぐ前にあり、国道41号線が整備される前は、旧8号線がすぐ前を通るメインストリートに面していました。
 「二代目の父の直行から聞いているところでは、祖父の直太郎は広い人脈があり、得意先の紹介で早い時期から富山商工会議所の会員になっていたようです。当時、個人の建具屋としては珍しかったのではないでしょうか」と、一さんは話します。
 直太郎さんは、市内の個人宅や寺院の建具など、さまざまな仕事を手がけた腕利きの職人でした。
 「祖父は写真を見てもわかる通り、なかなか男気のある人で、いい職人であり、やり手でした。地域の財界人とも積極的に交流し、立派な邸宅なども数多く手がけたと聞いています。
 また、夏休みに私たち孫3人をお菓子屋さんに連れて行き、当時、あまり食べられなかったアイスクリームを好きなだけ食べろと言われたときのことを憶えています。私が小学校6年生のときに亡くなったのですが、いいおじいちゃんでしたね」


数百軒の固定客を持ち経営は安定


 当時は、「頼母子講」という地域の人の積み立てによる互助会のような仕組みがあり、順番に必要な人が建具を注文していったそうです。
 「祖父は創業以来、積極的に人脈を広げ、富山市の水橋地区を中心に数百軒の頼母子講の得意先を持つようになっていました」
 そして、二代目の直行さんは大正8年生まれ。現在の富山工業高校の前身である富山市立工業高校を卒業後、家業を継ぎました。とても穏やかな人柄でした。
 「直太郎の代からの頼母子講によって、固定客が数百軒あった良い時代に父は仕事をしていました。ですから、祖父とは正反対の性格で、自分からどんどん前に出るタイプではなかったですね」
 戦時中、直行さんは招集され、樺太へ渡ります。現地では建具屋としての腕を見込まれ、ガラスの切削などの仕事で重宝がられたそうです。その後無事帰還し、昭和22年に長男の一さんが誕生しました。


厳しく教えられた手仕事


 三代目の一さんは、幼い頃から、祖父や父の仕事を見て育ち、自然にこの道を志しました。技能専門学校を卒業後、昭和40年に家業へ。
 その頃、機械はほとんどなく、すべてが手仕事でした。最初は道具の刃を研ぐなどの下仕事や、カンナ・ノコギリを挽く練習をしながら、仕事を覚えていきました。
 「叔父さんと職人さんから仕事を教わったのですが、やはり厳しかったですね。昔の職人は短気ですから、よく叱られました。近所にもその声が筒抜けで『あんちゃん、よう叱られたねぇ』と、言われたほどです。
 でも、初めて縁側のガラス戸の框を手がけた際に、片手でカンナが一気に挽けるようになったときは、本当にうれしかったものです」
 いまもそうですが、特にサッシがない時代に、縁側の立派なガラス戸は、職人の技が光る大切な仕事でした。
 車もない見習いの頃は、自転車にサイドカーのようなものを付けた「横付け」に建具を積んで得意先へ行ったそうです。
 「常願寺川にかかる橋までの長い坂は一人では登れませんから、2台で行って、互いに押したもの。よくやったと思いますね。得意先では、祭りの時にはご飯を食べていけと言われてごちそうになったりと、お客さんによくかわいがってもらいました。いま振り返ると、良い時代でしたね」
 祖父の直太郎さんの時代から付き合いのある家では、直太郎さんが手がけた建具がいまも残っているそうです。
 「職人は腕次第。きちんと仕事がしてあれば、時が経っても建具は曲がることなく長持ちします。だから儲からないんですけどね(笑)」
 腕利きの職人の評判は口コミで広がり、その確かな技は、二代の直行さん、そして三代の一さんへと受け継がれていきました。


サッシや規格品の登場


 一さんの代になり、時代は大きく変化し始めます。サッシが出回り始め、建具店でサッシを組み立てるようになったのです。また、一さんは昭和47年に恵美子さんと結婚し、2人の娘さんに恵まれました。
 「私が結婚した当時はお得意さんも世代交代する時期で、『頼母子』も減り、仕事量がどんどん減っていった時期でした。これではだめだというので、工務店さんとの取り引きなども積極的に開拓していったのです。仕事の流れが大きく変わっていった時代でしたね」
 また、一さんはいち早く機械を導入することに注力。大きな投資でしたがコンピュータ制御による加工機械も入れ、安全性や合理性、競争力を高めていきました。
 ところが、平成に入ると大手メーカーなどの規格品が増え、建具店の仕事はさらに減少。県内の建具店の数も大きく減少していく厳しい時代となります。しかし、一さんの確かな腕への信頼と人脈、恵美子さんの支えによって仕事を受注し、荒波を乗り越えていきました。 
 意匠を凝らした建物で知られた富山市内の割烹「銀鱗」の建具、また、富山県護国神社内の建物の格子戸など、いくつもの大きな仕事を手がけてきました。その高い技術と仕事ぶりを見た人から、また注文を受けるといったように、人とのつながりのなかで得た仕事が多いと言います。


リフォームの現場でも若手が活躍


 現在は、甥の浩さん、そして娘の麻友美さんの若手2人と、一さん夫妻の4人で山本建具を営んでいます。古民家再生など、リフォームに伴う建具の仕事が増えているそうです。最近は現場での仕事は若手2人に任せることが多くなり、今年、高岡市中心部で古民家を改装した重要伝統的建造物の建具も手がけました。その美しい格子戸に、受け継がれた技の高さを見ることができます。
 「建具や住宅の造りもさまざまに変化しているなかで、娘が入ってから、幼稚園の下駄箱や道具入れなどの家具づくりも手がけました。若い女性ならではの視点で、お客さまに喜ばれるような提案をすることで、仕事の幅が広がっていると感じます。今後も、建具にとどまらず、襖貼りなどの表具、木にまつわる様々な仕事で自分たちの技術を活かしていきたい」とご夫妻は語ります。


厳しい時代にも柔軟な発想で


 「時代の変化を受け入れて、自分たちも柔軟に変わっていくこと。そして、人とのつながりを大切にしながら、一つひとつの仕事をきちんとやり遂げていくことが大切」と、一さんは語ります。工場の外には、丸太から製材した木材が自然乾燥されています。これらの木を見極める力、この木はこう曲がるなど、材料の見分け方で職人の腕がわかると言います。
 仕事では、誰にも負けないという心意気で長年にわたり仕事を続けてきた一さんは、県外の建具屋のお子さんを預かって育てるなど、後継者も育成。富山市の技能功労者として、直行さん、一さんは親子で表彰されています。
 和風住宅が減るなか、建具業界でも腕利きの職人が減少しています。しかし、最近では木造建築の良さが見直されつつあり、建具の仕事は必要不可欠であるといえます。
 今後も若い世代が、やわらかな発想と、伝統を受け継ぐ手仕事の高度な技、そして人との出逢いのなかで、建具や木製品の新しい可能性を拓こうとしています。


山本建具
富山市新庄町121
TEL:076−451−9386

●主な歴史
大正5年に初代、直太郎さんが富山市内で創業
昭和34年、二代目の直行さんが継承
平成8年、三代目の一さんが継承