会報「商工とやま」平成29年4月号

続・おじゃましま〜す
山 田 岩 男 氏(富山電気ビルデイング株式会社取締役社長)


 新たに就任された副会頭を訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


東京生まれの東京育ち


 父の勤務先が東京だったので、JR京浜東北線の王子駅近くの北区滝野川というところで生まれ、育ちました。今も都電の荒川線が通っていて、下町の雰囲気が色濃く残っています。近くに飛鳥山公園という大きな公園があり、よく探検して遊んだものです。
 小学生の頃にはパイロットなどに憧れた時もありましたが、それよりも中学受験を頑張らなければならなかったので、とにかく一所懸命勉強しました。もしかしたら、小、中、高、大学の間で一番勉強したのは小学校時代じゃないかと思うくらいです。


ワンゲル部で好き嫌いを解消


 無事、中学受験に合格できたのですが、この頃は日本全体が高度経済成長でとても活気に溢れていた時期で、東京オリンピックが開催されたり、ビートルズが来日したり、いろいろなことを経験した中学時代でした。
 次の高校ではワンゲル部であちこち出かけました。辛い体験がいくつもありましたが、それを乗り越えて、体力的にも精神的にも逞しくなった時期だったと思うのです。また、一番の収穫は、食べ物の好き嫌いが無くなったことです。そんなことを言ってたら、仲間との食事についていけませんからね。
 大学時代は、学生運動の終わりの時期でしたが、卒業式も無かったように思います。そして就職活動を迎えるわけですが、当時、父も銀行員でしたから、金融の分野に興味があって、地元の銀行に就職したのです。


銀行員からの転職


 銀行には20年余り勤めましたが、その間に8カ所の店舗を回り、いろいろな人と出会いました。その中でも、6番目の勤務地となった函館支店にいた時、同じ世代のフレンチレストランのシェフと出会い、食に対して興味を持つようになり、このことが電気ビル食堂部門に役立つことになるのです。
 42歳の時に銀行を辞めて、父が経営する当社に入社しました。ちょうど会社の経理部門を仕切る責任者が定年で不在になるので、「もし、よければどうか」と父から誘われたのです。「是非、来てくれ」ではなかったけれども、やって見るかと決断しました。


食堂部門の落ち込み


 財務や経理部門を担当してしばらくして、あわせて食堂部門も担当することになったのですが、全くの畑違いにどうしていいのか、分からないことだらけでした。
 また、今から20年余り前から富山市内にも都市型ホテルが増え始め、レストランの競争が厳しさを増す中で、業績も大きく落ち込んでいました。さらに、定年などによるスタッフの世代交代も重なったことから、食堂部門の立て直しに取りかかりました。


立て直しに10年の歳月


 かつて当社のレストランに勤めていて、その後大手の外食産業で活躍しているシェフにチーフとして戻ってもらい、意見をぶつけ合いながら少しずつレベルを上げてきました。結局、10年の歳月がかかりましたが、銀行の函館支店で出会ったフレンチのシェフとの親交がこの時活かされたのです。


社運を賭けたプロジェクト


 もう一つ、大きな転機がありました。オフィスビルの賃貸事業は当社の柱となる事業の一つです。平成22年に東京都内で新たな賃貸ビルを建設する計画を立て、それは、社運を賭けた一大プロジェクトでした。まず、都心の一等地に土地を確保しましたが、その直後に東日本大震災が発生。都心からテナントが引き上げるなど、不動産市場は急速に冷え込み、このプロジェクトの継続も危ぶまれました。
 しかし、耐震性を強化したビルを建てたことで、耐震性に優れたオフィスビルを求める入居希望が増え、現在では都心にある当社のオフィスビルの中でも、中核的な存在となっています。


目先の利益にとらわれず、長期的な視点で


 これからの飛躍を目指している若い経営者の皆さんには、うたれても粘り強く取り組んで欲しいと思います。最初からスムースにいくことは本当にまれ≠ナ、どんなにきれいな設計図を書いても、その通りにいかないことの方が多いでしょう。東京でのオフィスビル建設計画がいい例です。
 大事なのは、信念をもって貫き通すことです。新しいことを開拓するときも、目先の利益ではなく、長期的な視点で考え、そして地道な努力を重ねることで、必ず道が開けると信じています。(談)