会報「商工とやま」平成29年6月号

続・おじゃましま〜す
観光・コンベンション委員会委員長 池 田 安 隆 氏
(株式会社池田屋安兵衛商店代表取締役)


 新たに就任された委員長を訪ね、時には仕事を離れて、ご自身のこれまでの歩みや明日への期待などについてお話を伺った。


薬の香りに包まれて


 堤町通りのこの場所は、昔は2階に家族が住んでいて、1階で漢方薬を造ってましたから、私はいつも薬の香りが立ち込める中で育ちました。小さい頃は友達の家がお店だったりして、中央通りのたから劇場やアーケードの下が遊び場でしたね。
 長男で、男は私一人なので後継ぎだということは薄々感じていながらも、素直に継ぐ気持ちにはなかなかなれませんでした。理系が苦手だったこともあり、大学は商学部を選びました。19歳の時に父を亡くしましたが、母が元気でしたし、会社には叔父らもいましたので、すぐに帰れということはなかったですね。


ユーラシア大陸を一周


 時間が自由になるのは今しかないと思い、1年間休学し、男友達3人でユーラシア大陸を一周旅行したんです。ロシア周りでポルトガルに入り、パキスタンまで、シルクロードを行く旅です。飛行機、列車等も使っていますが、リスボンから車で2万キロの移動に合計5カ月間かかりました。オーストリア、スイス、イタリア等にも行ってますが、半分は中近東の国々で、今は行くことができないイランやアフガニスタンをはじめ15カ国くらい訪れたと思います。もう二度と出来ない夢の世界ですね。


29歳で社長に


 大学を卒業してしばらく別の会社に勤めてから当社に入りました。5年後の昭和59年、社長を務めていた母が倒れたので、私が引き継ぐことになりました。29歳で薬屋としてやっていける自信はなかったけど、そこからは開き直りで、自分でやれることをやろうと思いました。
 当社は伝統薬を作り続けており、製造、卸、小売を営んでいます。新薬を開発するわけではないのですが、それでもドラックストアが急増し、得意先の柱だった配置販売業さんの急激な減少、地域の薬局薬店の減少が大きな問題としてありました。
 まちなかの商店街では駐車場の確保や、郊外へ住まいを移すことが一種のステイタスのようになった時期がありました。我が家も住まいが郊外になり、会社も昭和54年に製造部門を、昭和62年に営業部門を移しており、駐車場が確保できて仕事がしやすくなりました。ところが、かつてはたくさんの人が出入りしていたこの建物には薬剤師1人と店員2名しかいなくなってしまったんです。


観光客誘致事業をスタート


 まちなかが賑やかだった頃も衰退していく様子も目の当たりにしていますが、商いと住まいが分離したことで空洞化が始まったのではないでしょうか。薬局薬店にとって、近隣にお住まいの方がお客様ですので、気づいたらこの場所で店をやっている意味がない状況になっていた。それで、私の代で初めて平成7年に観光客誘致事業に取り組むことにしたのです。昔ながらの和漢薬で、薬の富山を感じていただける、オンリーワンの店を目指そうと思ったんです。


売薬さんが築いた歴史の重み


 店を改装して2階に飲食コーナーを設け、1階にはそれまで展示していただけの製丸機を体験できるようにしました。私自身もお客様のためにミニ講座を始めたりして、東京ディズニーランドのように、1つの施設の中で様々なパフォーマンスを揃えました。
 10年目ぐらいで、観光バス客だけで10万人に達し、この時は高岡の瑞龍寺を抜きました。中高年の方から「ウチにも置き薬があったわ」とか、「昔、薬売りの方がウチで泊まってかれてねぇ。あの人、今、どうしてるかねぇ」とか尋ねられるわけですよ。普段は気づかない歴史の重みを感じますね。
 観光業は地震等、災害の影響をもろに受けるのでその後は伸び悩んだりもしましたが、北陸新幹線の開業年は、ちょい乗り新幹線コース等のバスツアーがあってかなり増えました。2年目は少し減ったものの、絶え間なく個人客が気楽に来店されていますから、新幹線って凄いなと思います。


本物の追求


 古い商店街の中でも、本物を追及して長く続けておられるお店には行列が出来ます。カタログや映像では分からない、そこへ行って、見て、触れて見極められる本物の良さが必ずあります。当店もお客様から健康状態を伺って適切なものをお勧めし、納得して買っていただいています。命にかかわりますから、慎重に、誠実に取り組んでいます。どの職種でもそういう目に見えないものを追及してく人が成功していくのではないかと思うのです。(談)