会報「商工とやま」平成29年8・9月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ36
社員の健康と安全に配慮し、発注者からも信頼を得る 三金工業株式会社


 三金工業株式会社は明治10年に「谷川製作所」として創業し、138年の歴史を重ねてきました。金物屋の板金加工に始まり、配管工事へと業務内容を変え、水・空気・ガス・オイルなどが通るライフラインを担っています。配管工事は、日ごろ目立ちませんが、いつの時代にも不可欠で、トラブルが起こればいち早く修復せねばなりません。地道に市民の生活を支えてきた同社の五代目で、代表取締役の谷川昌夫さんにお話を伺いました。


明治10年に金物屋として創業


 三金工業株式会社の創業者、谷川松太郎さんは富山市八尾町の出身です。明治10年に同社の前身である谷川製作所を富山市越前町に開業したのが始まりです。金属板金で主に扱う素材は、銅板や真ちゅうなどで、建造物などに使われるものを特別注文で作っていました。打ち出して形を整えるのは根気のいる仕事です。
 「初代・松太郎の時代は、神社の鳥居や、国旗掲揚台の支柱、陸軍の起床ラッパ、煙突などを扱っていたと聞いています。二代目・松太郎のころは公的な仕事が増え、学校の煙突や水回りの配管工事を請け負うようになったそうです」
 第二次世界大戦中は金属製品が徴収され、生産統制の時代だったため、板金の仕事はほとんどなくなり、会社は立ち行かなくなってしまいました。また、本来ならば三代目として事業を継承するはずだった二代目・松太郎さんの長男が、ミレー島で戦死してしまいました。
 そこで三男である、現在の代表取締役・昌夫さんの父・三郎さんが後継者となり、会社の復興に全力を注ぎました。戦後も数年は材料が乏しかったので経営は苦しかったそうですが、国内の復興とともに建設業界も活気を取り戻します。昭和23年には株式会社となり、社名を「三金工業」としました。このころからは、板金よりも配管が多くなり、病院の空調工事などが増えていきます。高度経済成長期には、社員が30人近くいたこともありました。
 三郎さんの兄弟は独立してそれぞれ会社を興し、現在では昌夫さんのいとこたちが二代目として事業を継いでいます。兄弟が別の会社を興すと、その子の代でライバル関係になるケースが少なくありませんが、三金工業は現在でも協力関係を築いています。
 昌夫さんが会社に入ったのは昭和47年で、当時の社長は、三代目で父の三郎さんでした。その後、三郎さんの甥の茂信さんが四代目となった後、平成17年に昌夫さんが経営を引き継ぎました。



子供のころからの家業への思い


 昌夫さんは、中学生のころから父の仕事を手伝っていました。管をつないで固定する作業は人手が少しでも多い方がよいため、会社のために協力しました。
 「昭和38年の『三八豪雪』で大雪に見舞われた時には、当時はまだ小学生でしたが、本社のあった越前町から安住町の現場へ、手作りのそりにポンプを積んで運んだことが忘れられないですね。
 父の背中を見て『面白い仕事だな』と思っていましたので、家業を継ぐという思いで、高校は富山工業高校に進学し、卒業後、都内にある建築の専門学校で1年間学んでから入社しました。他の学校であれば2年間で取得するような知識や技術を短期間に詰め込まなければなりませんでした。あのころを振り返ると、一生のうちで一番、勉強したと思います。とても辛かったですが、その時に勉強した知識が今でも役に立っています」



コミュニケーション能力が必要


 六代目候補として修業中の島ア一也さんは、昌夫さんの甥で、現在35歳です。県内の普通科高校を卒業した後、建築メーカーなどを経て平成18年に入社しました。配管工事の設計は知識と経験が必要です。昌夫さんのように専門学校で学んだわけではないので、現場で経験を積みながら各種の資格取得を目指しています。
 「当社は後継者はいますが、若い社員を集めるのには苦労しています。せっかく入っても長続きしない課題があります。しかし、少し慣れて設計を担い、工事を総合的に見られるようになると大変面白い仕事です。専門の知識がない状態からでも現場で学び、資格を取って腕を上げていくことができます」
 学校などからは建物の建設、配管などを分けて発注されますので、異なる企業が連携して工事に当たらねばなりません。共同作業となるので、他業種とのコミュニケーション能力が問われます。



福祉のニーズと受注拡大


 昌夫さんは、専務だった平成14年に、三金工業とは別会社で、福祉・介護用品レンタル・販売、介護リフォームの「有限会社アイハートシステム」を設立しました。両社はリフォームなどで協力して施工に当たるなど、相乗効果を生んでいます。例えば、トイレを和式から洋式にする場合、アイハートシステムがトイレや手すりの取り付けなどを担当し、三金工業は配管工事を担います。福祉・介護という時代のニーズを読むことで、三金工業の受注拡大にもつながりました。
 建築業界では、20年ほど前までは新築の物件が多かったのに対し、最近はリフォームの方が多いそうです。
 「創業138年の三金工業にはこれまでの施工の記録が残っています。管の耐久は20年から25年が寿命で、25年を過ぎるとダメになります。そのため、施工記録をもとに、老朽化してトラブルが起こる前に取り換えをお勧めしています。歴史の長い私たちは、何度も同じ建物のメンテナンスをさせていただいています」
 ライフラインの整備は欠かせないものの、目に見えない部分だけに、「できるだけ安価で仕上げてほしい」などの要望も少なくありません。施工業者にとっては悩みどころですが、メンテナンスの観点から、信頼できる部品を使い、施工後のケアも行っていくことで理解をお願いしています。



社員が瑞宝単光章を受章


 配管工事は、安全・確実に施工して当たり前であり、建造物が完成してしまえば、配管は見えなくなってしまう「縁の下の力持ち」という存在です。しかし、昌夫さんが「三金工業のこれまでの業績が認められた」と感じたことがありました。それは、平成22年の春の叙勲で、当時工事部長だった秋元敏さんが富山市管工事協同組合の推薦により、瑞宝単光章を受章したのです。
 「秋元は常に強い責任感を持ち、豊かな知識や見識、指導力で社員の模範となる存在です。工事部長、安全管理者としての使命を理解し、技術と誠意をもって業務に当たりました」
 秋元さんはすでに引退していますが、秋元さんの後任の工事部長・池田稔さんが教えをしっかり受け継ぎ、現場管理・安全管理者として、毎日、技能技術と誠意を持って業務に当たっています。
 社員の安全と健康を第一に考え、産業廃棄物の適切な管理など安全衛生管理も徹底する昌夫さんと、それに応える従業員、そして発注者からも信頼を得続けている三金工業。時代のニーズを敏感に感じながら、これからも地域に必要とされる企業として歩み続けていきます。



三金工業株式会社
富山市千石町5丁目5−6
TEL:076−421−3441

●主な歴史
明治10年(1877年) 谷川松太郎が金物屋「谷川製作所」を越前町に構える。その後、2代目を松太郎の長男・茂信(松太郎に改名)が継承。
昭和23年(1948年) 茂信の三男・三郎が三代目となり、「三金工業株式会社」へ改組。
平成6年(1994年) 三郎の甥・茂信が四代目となる。
平成17年(2005年) 三郎の長男・昌夫が五代目となる。
平成19年(2007年) 本社を越前町から千石町へ移転。