会報「商工とやま」平成30年4月号

シリーズ 老舗企業に学ぶ41
「造園は文化」チームワークで伝統の技を守る 株式会社福田園


 創業は明治13年。「福田園」は家づくりにこだわる富山の人の思いをくみ取りながら、造園事業を続けて138年目を迎えました。固いチームワークで庭を造り上げる思いを、取締役会長の橋本莊八さんと、長男で代表取締役の橋本匡史さんに伺いました。


「福田園」を桜木町に創業


 創業者の福田甚三郎さんは、富山市東町の生まれ。もともと庭職人で、橋本家に婿入りしたため橋本姓になりましたが、事業を興すにあたっては旧姓を屋号とし、「福田園」を桜木町に創業しました。創業者の曾孫にあたる4代目の橋本莊八さん(会長)は、創業者や明治期の庭木職人の仕事内容について話してくださいました。
 「富山の豪商などが庭園を造る際、京都などから庭師を呼んでいたそうです。甚三郎は彼らを手伝ったり材料を探し回ったりして、庭造りやせん定、雪囲いなどの造園技能を培い、経験を積みながら、腕を磨いていきました」
 大正に入ってからは、甚三郎さんの長男・長太郎さんが若くして家業を継ぎました。その長男・莊一さんが戦後間もなく3代目となり、桜木町にある事業所が手狭になったため、東田地方に移転しました。
 「当社には現在、わたしたちを含めて12人の社員がいますが、最もたくさんいた時は、20〜30人の大所帯でした。給料日や祭りの日には、宴会を開いて酒を酌み交わすなどして賑やかでした。独立していった人も少なくありません」。莊八さんの話からは、日本の技を継承してきた職人達の生活がしのばれます。
 福田園は昭和54年に法人化し、平成6年に莊八さんが社長に就任しました。東田地方もまた手狭になったため、同14年に事業所を富山市上野へ移転しました。



「すぐ継ぐ気はなかったが……」


 昭和19年生まれの莊八さんは、中学生のころから休日には家業を手伝っていました。高校卒業後は東京農大で造園について学びましたが、家業をすぐに継ぐ気はなく、同級生ら数人と会社を興して、首都圏の民家の庭木の手入れをする事業をしていました。しばらくは、その仕事を続けるつもりでしたが、仲間が京都へ修業に出たり、故郷へUターンしたりしたため人手が足りなくなり、莊一さんの体調が悪くなったこともあって「仕方がない」という思いで実家へ戻ることを決めました。
 5代目の匡史さんも首都圏の大学へ進学し、経営情報学を専攻しました。卒業後に他業界で働いていましたが、祖父から家業を継ぐことを促され、故郷に帰ることを決めました。匡史さんのUターンは、職人のプロ集団だった福田園に、新しい視点を加えることになりました。
 「時代の流れを先読みして、学部を選んだわけではありませんでしたが、結果としてうちの会社がパソコンなどを導入するにあたり、自分の知識を生かすことができました」と匡史さんは当時を振り返ります。



業界全体に縮小の兆し


 25歳で福田園に入った匡史さんは、祖父や父、ベテラン職人に教えを請いながら業務に当たり、職人としての経験を積む一方で、経営者としての手腕を磨き、今に至っています。
 「高校時代に家業を手伝っていましたが、全く知らない世界に飛び込んだようなものです。自分が生まれる前に入社したベテランの職人から、いろんなことを学びました。技能を習得するのと同時に、福田園はどういう存在で、何を提供すべきかを学びました」
 平成27年に匡史さんが5代目社長に就任、莊八さんは会長となりました。莊八さんは、業界の流れを次のように振り返ります。
 「『庭付きの家』が当然だった時代があります。公共事業では、平成8年に全国都市緑化フェアが開催され、同9年には富岩運河環水公園が開園しました。同12年の2000年とやま国体に向けてスポーツ施設の整備が進められるなど、県内の造園業界は同12年ごろまで発展していったと感じます。起業する人もたくさんいました」
 しかし、その後は家を建てても庭にはこだわらない人が増え、造園の公共事業が縮小されるなど、時代のニーズが変化しました。



庭師だからこそ分かるもの


 業界全体に縮小の傾向が見られる現在、匡史さんは、5代目として何をすべきなのかを模索しています。
 「近年、庭の簡素・省力化や、材料を自分で用意するなどして、予算縮小を望まれる方が少なくありません。お客様の意見は受け止めますが、実用性や予算だけを重視した庭造りばかりを目指していては、本当に良い庭はなかなか実現しないのです。
 慌ただしい日々、ふと庭に目をやると四季の移ろいにハッとし、癒されることがあります。子供の誕生に合わせて植樹する家庭もあります。そんな家庭では、樹木を植え、手入れすることで、その景色が家族の共通の思い出になります。心の豊かさを育むには、目に見えない感慨や物語、郷愁が重要なのです。我々は、プロの庭師だからこそ庭が果たすランドスケープ(風景)としての機能についてお伝えしていく使命があると思っています」
 さらに、現在の造園業で大切なのは、「昔は御用聞きから始まった」という職人としての意識だそうです。
 「家の雨どいが壊れていれば直し、修繕の必要な所が分かればお伝えします。手入れをさせていただいている家へは定期的に足を運ぶことはもちろん、大雪や台風の後には巡回します」
 得意先の家人が不在でも手入れをしていくのは、長年の信頼関係があるからです。せん定や雪囲いなど定番の業務以外にどんなサービスを提案できるのかを常に考えながら作業を行い、気配り・目配りを忘れません。
 福田園は、「伝統」と「創造」をテーマに、日本の造園技術・文化を継承しつつ、絶えず技術と感性を磨き、新たな庭園・公園の魅力を創造してきました。



「手間を惜しまずやれよ」


 莊八さんからは、気概を持って庭造りに取り組んできた職人の気骨が伝わってきます。
 「いくつになっても『きれいに仕上がりましたね』と言われると嬉しいですね。よく手入れされた庭は美しいものです。だから職人には『手間を惜しまずやれよ』と指導しています。東山文化の形成に貢献した(室町幕府8代将軍の)足利義政は、職人を大切にしたそうです。造園は日本の文化であり、庭師は文化の担い手だという自負を持ってほしいのです」
 「手間を惜しまず」は、「時間をかけてもいい」のではありません。時間をかけず、きれいに仕上げることが大切。熟達した庭師は、若手をうまく使いながら、てきぱきと作業を進めていくもの。チームワークも技量のうちです。これらがすべて機能して、一つの芸術作品のような庭が仕上がり、お客さんに「美しくて素晴らしい」と評価していただけるのです。日々、変化する四季と向き合いながら文化の担い手として進化し続ける限り、福田園の職人技は継承されていくに違いありません。



株式会社福田園
富山市上野990
TEL:076−428−2883

●主な歴史
明治13年(1880年) 福田甚三郎が橋本家に婿入りし、桜木町に「福田園」を創業
大正10年代(1921〜26年)2代目橋本長太郎が事業を継ぐ
昭和20年代(1945〜54年)第二次世界大戦後に桜木町から東田地方へ移転、前後して3代目橋本莊一が事業を継ぐ
昭和54年(1979年) 事業所を法人化
平成6年(1994年) 4代目橋本莊八が社長に就任、荘一は会長に
平成14年(2002年) 事業所を上野へ移転
平成27年(2015年) 5代目橋本匡史が社長に就任、莊八は会長に