平成14年5月号

特別寄稿
佐々成政と肥後国衆一揆 〜中世から近世への歴史的転換点〜

佐々瑞雄氏(佐々成政研究会会員)


●わが家のルーツは成政?

 「商工富山」4月号(3月20日発行)掲載の作家・遠藤和子先生の溝演内容を拝読しながら14年前の昭和63年の富山への取材旅行を思い出していました。

 当時、熊本を中心として各地に点在する私どもの佐々家では、年長者や次代を担う者たちが相次いで亡くなる事態が重なっていました。その中で2、3代前の明治前後の祖父母たちについて語る者が少なくなってきました。また、若い人同士が疎遠になり、お互いを知ることが少なくなってきていました。このため、これを機会に一族が活躍した明治を起点に一族史をまとめることになり、その執筆・編集者に地元新聞社で新聞記者などを歴任していた若手の私に白矢が立ち、『佐々家覚え書』(平成元年刊行)に取り組むことになりました。

 祖父母たちの動静を書くにあたってやはり先祖のことを“前史”として触れる必要が出てきました。小さい時から母より「ご先祖さまは、熊本城を建てた加藤清正の前の国主だった人ですよ」「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません」等と言われてきました。しかし、「佐々成政」を意識するところまで行っていませんでした。幕末まで細川家臣だったため藩に提出してある各家の履歴書『先祖付』が手掛かりとなりました。その中に「佐々成政」の名前があり、本家に伝わる系図等と符号。わが家のルーツは「佐々成政」かと実感し、探索の旅が始まりました。


●富山での成政の足跡に感動

 その探索の旅の中で前述の遠藤和子先生の『物語・佐々成政』『佐々成政〈悲運の知将〉の実像』の本との出会いがありました。私のいとこで陸上自衛隊の富山駐屯司令として富山に赴任していた佐々孝雄氏が、遠藤先生と顔見知りだったため、面談を申し込んでもらいました。早速、快諾された遠藤先生は、熊本から訪れた私に詳しく、それも熱のこもった話をしていただきました。その上、成政ゆかりの史跡をくまなく案内してもらいました。それは10年近く膨大な歴史文献と伝承を丹念に調べ、自らの足で実地実証を重ねてきた証がそこにありました。

 常願寺川の氾濫を防ぐための川筋堤防「佐々堤」を眼前に見たときは、四百年の時空を超えて、そこに成政がいるような錯覚さえ感じました。「成正(成政)大明神」を祭る「一夜泊稲荷神社」をはじめとする成政信仰の足跡があちこちに点在。富山平野が一望できる豊臣秀吉の本陣「白鳥城址」と「佐々成政剃髪址」の石碑など秀吉と成政の攻防の足跡、「早百合伝説」にまつわる一本榎と「早百合観音祀堂」や「円隆寺」の「サンサイ踊り」等に為政者の凄さを知りました。その他多くの成政にまつわる史跡、伝承の発掘に感動を覚えました。

 遠藤先生の手により、これまで非道の暴君、猛勇だが短慮だという成政像を覆し、正しい歴史的評価を打ち出されました。成政の実像は、当時の中世社会を打破し、近世社会を築こうとした織田信長の直属の家臣として、「佐々鉄砲隊」にみられるように、時代の先端をいく武将であったようです。富山における成政は、アイデアマン、治水事業に優れた土木技術者、善政を敷いた民主国主であり、厳寒の北アルプス「さらさら越え」を敢行するなど主家・織田家への忠義を貫いて秀吉に敵対し、愚直なまで情義を全うした人物だったといえます。


●九州征伐と成政の肥後国主

 天正13年(1585)、秀吉の大軍による越中征伐により軍門に下った成政は、妻子を伴って秀吉に同行して富山から大坂城に入りました。このとき、成政は、摂津国能勢郡(大阪府豊能郡能町)1万石を賜り、秀吉の側近にいるお伽衆に加えられました。これで信長の譜代衆の中の反秀吉派は平定されたのです。秀吉は直ちに大坂城を中心とする幾内の直臣・譜代衆による国分け・国替えを行い、秀吉の関白政権の軍事的、経済的な基盤を確立しました。同時に中国大陸の明国出兵計画が浮き上がってきました。

 その過程で九州を幾内の同一の体制として基地・兵站(へいたん)供給地を設置し、明国と朝鮮への侵略を狙うため、九州征伐・統一の必要が出てきました。そのとき、豊後の大友宗鱗が、隣国の薩摩・島津勢から攻められ、秀吉に助勢を求めてきました。秀吉は、成政を使者として大友宗鱗のもとにやり、九州の諸将に秀吉の御家人になる事を要求、拒否した場合は征伐すると通告しました。秀吉の下知に従ったのは僅かだったため諸大名に九州征伐を命じました。

 天正15年(1587)3月、秀吉は20万の大軍を率いて大坂を出陣。成政は羽柴秀長軍に属し、豊後府内(大分市)・日向を経て薩摩に向いました。秀吉は、豊前小倉(北九州市)から筑前・筑後・肥後隈本(熊本市)を南下して薩摩川内(鹿児島県川内市)に本陣を構えました。大軍を前に九州の雄である島津義久は、弟・義弘に家督を譲り、成政らの取りなしで秀吉に拝謁し服属しました。

 島津討伐で九州統一を完了した秀吉は、直ちに大陸侵攻の態勢づくりを頭に置いた九州の知行割りを実施しました。大坂に帰る途中の肥後南関(熊本県玉名郡南関町)で秀吉は、成政を肥後国主に任じ、隈本城(後の古城)の普請を命じました。小早川隆景を中心に博多(福岡市)を侵攻拠点として周りの豊前に黒田如水と森吉成、肥後に成政と実力のある実戦的武将を配置する軍事体制づくりをめざしました。


●在地領主の国衆52人

 成政が国主になった肥後は「難事の国」といわれ、守護大名より実力がある在地領主の国衆52人が血縁同族的団結で統治していました。大半が千町歩以上の城領主で、中世以来の領地を所有し、一円的に支配するなど切り取り勝手の戦国時代にあって、中世封建社会を形成していました。しかし、隣国の豊後の大友氏、北からの龍造寺氏、南からの島津氏の勢力の消長に左右されながら支配力の強弱を余儀されていました。

 九州を平定した秀吉は、その国衆たちに朱印状をもって所領を安堵しました。しかし、その中身は領地を大幅に削減し、知行権を制限したもので、豊臣政権への反発を内包することになりました。一方、成政に対しては小国分立国家である肥後で反豊臣政権的な行動が起きないように秀吉は、「制書」五ケ条を与えたということです。

御制書
 一、肥後国五十二人之国人に先規の如く知行相渡すべき事
 一、三年検地有るまじき事
 一、百姓等痛まざる様に肝要の事
 一、一揆起こさざる様に遠慮あるべき事
 一、上方普請、三年免許せしめ候事
  右之条々、相違なく此旨を相守るべく也、仍而件の如し
  天正十五年六月六日 秀吉御朱印
               佐々陸奥とのへ


 この制書は、後世の偽書ともいわれ史料的信憑性が問題になっていますが一般的に流布しています。この難題を抱えた成政が遠征のまま入った隈本城は、5千人の軍事力を擁する堅牢な城でした。その時の成政は、先鋒小姓軍として率いる手勢の兵はわずか500〜700ばかりであったといいます。肥後入国の知らせを聞いた神保氏張ら富山の家臣や家族が、早速肥後に向かっていました。


●肥後国衆一揆がぼっ発<

 秀吉の大陸侵攻のため、食料や軍用品を調達・補給する兵站基地体制づくりに相次ぎ手を打つ成政。そのもとに富山や大坂から続々と家臣たちが馳せ参じ、膨れ上がる家臣団を眼の前にして、成政は新たに所領宛行(あてがい)をするとともに、領国生産体制の確立のため田畠をひとつひとつ実測する「太閤検地」を強行しようとしました。

 成政は検地に先立ち、国中の領主に田地面積・収穫量・作人を調査した「指出(さしだし)」の提出を求めました。これに対してドンブリ勘定の申告で地主的所有をしていた有力国衆は、秀吉の御朱印による安堵を楯に反対しました。まず肥後の北東部の有力国衆隈部親永(菊池郡隈府城主)・同親安(鹿本郡山鹿城主)親子が反発。談合しようとした成政の誘いに応じなかったといいます。このため武力による解決を図ろうとした成政に、周辺の国衆が一斉に反旗を翻しました。これに農民も一味同心して一揆になってしまいました。これが天下を揺るがすことになった「肥後国衆一揆」です。

 これは中世封建社会にある国衆・在地小領主・有力農民の不入権の世界に、北陸・富山の7年間の治世で近世封建社会のルールを身につけてきた成政の挑戦であったといえます。しかし、肥後の武士たちは、南北朝時代より時代の変わり目や歴史的な大きな出来事に際しては、必ず登場して活躍しており、古来勇猛果敢な気性を持っていることで知られていました。このため、国衆対策や検地政策など富山で相当経験を積んできた成政も手を焼くことになりました。


●富山の領民にも応援の動き

 入国したばかりの成政は手勢が少なかったが、一騎当千の武将を従えていました。その一人に元佐々鉄砲隊の主要メンバーだった佐々与左衛門宗能がいました。成政の甥で養子になり、肥後に来たときには成政の片腕として、家老職にあり3万石が与えられていました。その宗能が隈府城を攻め落としましたが、隈部一族は城村城に立て籠もりました。城内には、800余りの侍に、男女・子供が1万5千人余り、鉄砲が830挺、弓は505張があったといわれ、地元全村挙げての一揆の様子が窺われます。

 成政は、助勢の兵も入れて2,500の軍を率いて、城村城を包囲。激しい攻防戦の最中、成政の留守を狙って隈本城を近郊の国衆の大軍が包囲しました。これまで協力してきた国衆たちが攻撃してきたのに驚いた成政は、救援のため宗能とともに隈本に向かいました。宗能は300余騎を率いて別道を急いでいましたが、途中の在地領主軍に襲われ自刃しました。その土地では、戦死した武将を埋葬した土饅頭の侍塚がかっては数多くあったといいます。その一つが「ささ(佐々)塚さん」と呼ばれ、宗能の墓と言われ、墓石と礼拝堂が作られています。現在も地元の人達が毎年12月15日に供養祭を行っています。

 隈本城では、歴戦の武将神保氏張らがわずかな兵力で防戦していました。そこへ富山から移住してきた佐々家一族が到着。やがて成政勢1,000人も着き、一部国衆の協力も得て盛り返しました。しかし、戦火は拡大していき周辺の諸将にも応援を申し入れるようになりました。この成政苦戦の報は富山にも伝わり、成政を慕う領民たちが大挙して肥後へ向かおうとしたと語り継がれています。


●成政・国衆に喧嘩両成敗

 天正15年(1587)9月、近隣国への波及を恐れた秀吉は、九州の諸将に肥後へ出兵して成政支援を指示しました。しかし、肥前・豊前などにも一揆が起こり、全九州に広がる様相になってきました。10月1日、秀吉は京都で千利休らと北野大茶会を10日間の予定で催していましたが、この報に1日で中止し、中国地方の諸大名にも出陣命令を出しました。強硬な弾圧策をとり、一揆の各城を落としていきました。12月2日に隈部親子が降参し、最後まで抵抗していた田中城(和仁城=平成13年に国指定史跡)も落城して一揆は次第に平定していきました。

 翌天正16年(1588)1月、秀吉は残党弾圧と鎮圧後の政策を行うため、加藤清正・小西行長ら子飼いの武将たち7名を上使衆として、上使軍2万とともに肥後に派遣しました。一方、成政は2月に秀吉に戦乱の釈明と謝罪をするため大坂に向かいましたが、摂津尼ケ崎に足止め、幽閉されてしまいました。

 上使衆による報告では、国衆に対して朱印高の給地宛行の不履行、急遽領内検地を行う非法のために、国衆百姓が迷惑を被ったことが原因で一揆が起きたとして、成政にその責任を負わせました。成政は、閏5月14日に尼ケ崎・法園寺でその責任をとり、自刃しました。成政の肥後での治世はわずか1年。その間、国衆との戦乱に明け暮れ、その手腕を発揮することなく終わってしまいました。

 そして、佐々家断絶という厳しい処置に一族・家臣たちは各地に離散していきました。その中で加藤家に抱えられたのは宗能の弟で佐々備前守直勝で私たちの直接の祖先になります。加藤家の重臣として活躍し、清正が築いた熊本城に屋敷を賜り、現在は城内の「備前堀」にその名をとどめています。

 一方、隈部親子をはじめ国衆たちは、他国に逃げても徹底的な弾圧に合い、ほとんどが殺害され、壊滅状態となりました。国衆の重臣たちも処分を受けるなど在地支配能力を失い、国衆支配は終焉しました。秀吉にとっては、喧嘩両成敗により、厄介な成政と国衆を一気に取り除くことができたといえましょう。その後は肥後国主になった清正の名声の前に肥後改革の礎となった成政の存在は埋没してしまいました。


●肥後で太閤検地・刀狩令

 秀吉は一揆残党の弾圧、農民の還住奨励を兼ねて天正16年(1588)5月頃から一斉に太閤検地を始め、清正・行長が肥後半国ずつの領主として入国。この検地は、これまでの検地とは比較にならないほど厳重な方式で行われ、隠田の一筆も残さない徹底した総検地でした。全国一律の基準で検地が行われるようになり、その土地の年貢が確定するという土地税制の大改革となりました。大化の改新における班田収授の法と並ぶ歴史的大事業といわれています。

 引き続き秀吉は、農民参加の肥後国衆一揆の経験から同年7月に「刀狩令三ケ条」を天下に公布しました。農民から武具を没収し、農業生産に専念させる身分に限定させました。これにより農民は、農村に定住し、年貢を納める階層となり、「兵農分離」が確立しました。

 肥後国衆一揆の教訓から、本格的な太閤検地と刀狩りの実施により、実質的な天下統一が行われ、これまでの中世封建社会から近世封建社会へと転換していきました。富山から肥後へ赴いた成政は、まさしく時代のうねりの中で翻弄されながら歴史の転換点の基軸に立っていたのです。

〔参考文献 『佐々成政のすべて』(新人物往来社刊行)『近世初期肥後国衆一揆の構造』(森山恒雄)『肥後国衆一揆』(荒木栄司)『佐々家覚え書』(佐々家覚え書刊行会)等〕


佐々成政研究会=平成2年4月、戦国武将「佐々成政」の資料の発掘・研究・発表及び関連事項の調査等を行い、併せて会員相互の親睦を図る事を目的として発足。毎年成政命日5月に成政の墓所である尼崎市・法園寺を中心に全国各地の成政ゆかりの地で総会や研究会を開催。会報「ざら峠」、情報連絡誌「成政ファン」を定期発行。 会長=浅野清。
本部=新人物往来社「歴史研究会」気付(東京都千代田区神田錦町)
企画編集部=愛知県愛知郡長久手町長湫字山桶36番9 浅野清気付


佐々 瑞雄氏
執筆者プロフィール
さっさ・みずお。熊本県生まれ。佐々備前守直勝の末裔。平成2年4月に発足した佐々成政研究会の会員として熊本県地区を中心に活動。日本風俗史学会会員(茶道文化史、郷土風俗等専門)。熊本県文化懇話会常任世話人、熊本県文化協会常務理事等。現在(株)熊日広告社専務取締役。
著書に『佐々家覚え書』、共著には『熊本県大百科事典』『熊本の祭り』『佐々成政のすべて』等がある


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