平成14年10月号

佐々成政隊がゆく(4)

富山城址


 樹木が鬱蒼とする富山市都心部の城址公園内に3層の天守閣を持つ「富山城」が建つ。

 富山城は、天文12年(1543)ごろ、守護代神保氏の重臣・水越勝重が築城し、そのあと、神保氏が3代にわたって居城したと伝えられている。

 天正8年(1580)織田信長は、越後の上杉氏に攻められていた富山城主の神保長住を援助するため、佐々成政を越中に派遣、翌9年に越中の国主に任命した。そして、同10年、長住が越中を去ったことで、成政は富山城に入城し、名実ともに越中一国を支配することになる(その後、豊臣秀吉の軍門に下る天正13年まで富山城主として越中を支配する)。

 高い土木技術を有していた成政は氾濫で流れが変わった神通川といたち川を利用して、有事のとき富山城が“浮き城”となるように修築した。当時の富山城は現在の星井町・千石町まで及ぶ広大なものであったと言われている。


 成政が去ったあと、富山城は前田家の居城となったが、江戸時代の度重なる火災で焼失し、明治初期までには城の殆どが取り払われた。

 今の富山城は、昭和29年(1954)の富山産業大博覧会を記念して建設されたもので、城内は富山市郷土博物館となっている。同館入口左側の樹叢の間には「何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白く降るらん」と書かれた成政の歌碑が立つ。これは天正13年暮れに天正大地震で被災した民衆を見舞うため、久しぶりに越中に入国した成政が、心を痛めて詠んだ歌であると言われている。

 城址公園には現在、いくつかの歌碑・句碑や銅像が立ち、また、緑も豊かなため、都心部のオアシスとして日頃から多くの市民が訪れる。

〔場所〕富山市本丸1‐62
〔時間〕JR富山駅から徒歩10分


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