平成15年1月号

佐々成政隊がゆく(7)

成政と“はる”


■法園寺に立つ成政の墓

 兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎駅からほど近い、法園寺に佐々成政の墓がある。

 羽柴(豊臣)秀吉の軍門に降り、越中を引き揚げた成政は、しばらく、秀吉のお伽衆として大坂にいたが、天正十五年(一五八七)秀吉の九州征伐に従い出陣した。九州を中国大陸進出の拠点として考えていた秀吉は、盤石な体制を整えるため、九州平定後、兵学に優れていた成政を肥後(熊本)の国主に任命する。

 しかし、再び、九州全域が混乱する。成政の指出検地に反発した肥後の国人たちが一揆を起し、それが九州全域に波及したのである。これを知った秀吉は激怒し、開催していた北野大茶会を一日で取り止め、即座に加藤清正らを九州に派遣し、反乱を鎮めた。

 秀吉に謝罪するため、謁見を求めた成政であったが、会うことすら許されず、同十六年(一五八八」)法園寺で切腹させられた。享年五十三。辞世は次のとおり。

 このごろの厄妄想を入れ置きし 鉄鉢袋今破るなり

 成政の墓が立つ法園寺には位牌や成政画像のほか、成政の死を悼まれた後陽成天皇のご親筆が残されている。

 なき人のかたみの雲やしくるらむ 夕の雨に色はみえねと

 無念の最期を遂げた成政であったが、旧織田家家臣の中で最後まで主家に対する忠誠心を忘れなかった、実直な武将であった。

■京都には成政と“はる”の夫婦墓

 成政の正室・慈光院(NHK大河ドラマ「利家とまつ」では“はる”)の菩提寺・慈眼寺(京都市上京区)に成政と妻“はる”の夫婦墓があることが分かった。

 五輪の塔に刻印された「慈光院殿」の文字の横に判読できない文字が刻まれていたことから、同寺が拓本をとったところ、「成政寺殿」の文字が刻まれていることが判明した。

 なお、この慈光院は、織田信長の家臣・村井貞勝の娘であるが、詳細については分かっていない(名前も不明で、大河ドラマでは“はる”という名前で登場していた)。

■孫は“関白”や家光の“正室”に

 成政は、国人一揆の責めを負い、法園寺で切腹したが、その後の歴史に成政の子孫が多く登場する。

 成政の次女・岳星院は、関白・鷹司信房に嫁ぎ、七人の子女をもうける。そのうち、嫡子・信尚は関白、二女・孝子は徳川三代将軍・家光の正室となったほか、孫・信子は五代将軍・綱吉の正室になった。

 また、もう一人の娘は、狩野永徳の子に嫁ぎ、有名な「狩野探幽」を産んだ。

 そして、成政の甥の佐々直勝は、成政切腹後、加藤清正に召し抱えられ、その子孫には、浅間山荘事件で指揮を執り、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏がいる。

 このほかにも、忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助の妻・りくや水戸黄門で有名な“助さん”こと佐々介三郎宗淳も成政の子孫であると言われている。

■誤解され続けてきた佐々成政

 佐々成政については、十数年前まで、悪逆非道の暴君として言い伝えられてきたが、作家・遠藤和子さんなどの研究によって、成政のあとの越中を支配した前田氏によって歪めて伝えられてきたことが判明した。

 前田氏は、成政を慕う民衆らに苦慮し、早百合姫伝説など悪い噂を言い広め、悪逆非道の武将というイメージを植え付けたのであるが、前田氏に隠れて民衆は、佐々堤の築堤やいたち川の改修など、民衆が安住できる城下町づくりを行った成政を慕っていたのである。

■語ろう“成政”

 今回のNHK大河ドラマの放映を機に、成政に光が当てられ、富山に残された成政の偉業について再認識することができました。

 再び、歴史の闇に埋もれさすことがないように、日頃から、家族や職場の仲間と成政について語り合い、そして、成政ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。

 また、当所では佐々成政を富山のシンボルとして、これからも、取り上げていきたいと考えており、本誌では「成政商品(お酒、お菓子、土産品等)」について特集を企画しております。つきましては、成政商品についてご存じの方はぜひ編集部までお知らせください。

■連絡先
当所「商工とやま」編集部まで TEL076−423-1112


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