三共商店薬品部。東京 南茅場町
タカヂアスターゼの日本販売広告

しおばらまたさく、タカヂアスターゼと出会う

塩原又策は、横浜の外国人を対象とした絹織物の商人でした。
アメリカを訪問していた塩原の友人、西村庄太郎は、たまたま「タカヂアスターゼ」の存在と薬効についての情報を知り、塩原に伝えました。
タカヂアスターゼの可能性を信じた塩原、西村ら3人は、譲吉に面会を申し込み、日本での委託販売を申し入れます。
譲吉は、当時48歳。無名の若者の申し入れを承諾しました。
塩原は、横浜から東京日本橋に進出。「三共商店」を設立し、販売網を着実に広げ、実績をあげました。
1902年には、帰国した譲吉に会い、アドレナリンを含めた日本での独占販売権を獲得します。
三共商店は、譲吉をはじめ、渋沢栄一、益田孝らの出資で、1913年に「三共株式会社」となり、譲吉は初代社長に就任しました。
「三共商店」は、現在、日本を代表する製薬企業「第一三共株式会社」となっています。

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エピソード

07

世界のタカヂアスターゼ編

明治時代(1897-1899)

譲吉45歳まで

この頃のアメリカでは、乳幼児の消化不良が問題となっていました。

当時、医薬品では「ジアスターゼ液」がありましたが、麦芽ばくがから抽出ちゅうしゅつし、煮詰めて製造したもので、水あめ状のものでした。
工場での製造や瓶詰め工程など手間がかかり、医師の処方に対しても柔軟性がありませんでした。

「タカヂアスターゼ」は、乾燥して粉末にすることができます。
そのため、安定性、作業性において優れ、投薬も大変便利になったことが、人々に喜んでいただけた理由のひとつだと思います。

パーク・デイヴィス社は、ヨーロッパにも販売を開始し、人気商品となりました。
ただ、私は、日本に限っては、日本人に販売を任せたいと考えていました。
日本の製薬会社を育てたいと思ったからです。

そこで、若くて熱意のある商人、塩原又策しおはらまたさくに販売を委ねました。彼は、当時22歳。塩原は、「三共商店」をつくり、タカヂアスターゼの輸入販売を始めました。

発売直後のタカヂアスターゼ
3種類の製品 左から、「粉末」「液剤」「カプセル」