「成功したるを確信するに至れり」

上中啓三の実験ノート

上中は、1900年の7月20日から11月15日まで、実験ノートを書いています。
実験材料は、牛の副腎の抽出エキスで、これらの材料は、譲吉が、パーク・デイヴィスから入手していたものです。
実験開始2日目には、「希望すこぶる強盛。結果は好約束示す」とあり、主成分を取出したのではと期待しています。
「多量の新鮮なるせんを取り寄せてほしい」と譲吉に言ったことも記しています。
8月4日、「結晶状粉末となれり」。
8月5日、「いよいよ主成分分離は我がラボラトリーにおいて成功したるを確信するに至れり」。
9月19日には、顕微鏡けんびきょうで観察した新晶体しんしょうたいのスケッチを描いており、11月7日に、「ドクトル・ウィルソンの提案により『アドレナリン』と命名す」と書かれています。

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アドレナリンは、腎臓の上にある副腎ふくじんの中心部(髄質ずいしつ)で生成し、血流に乗って目的の臓器(組織)に運ばれ、生理作用を発揮します。

アドレナリンは、特許の対象か?

譲吉たちの抽出成功により、「アドレナリン」と名付けられた物質は、ホルモンの一種で、初めての結晶化から100年以上たった現在でも医療の最前線で使用されています。
結晶化に成功した譲吉たちは、アドレナリンの製法の特許をアメリカで出願します。
しかし、アドレナリンは生体の一部分であり、特許性がないと、製薬会社のマルフォード社が異議を申し立て、激しい法廷闘争が繰り広げられました。

日本での初期販売品。
発売は1902年(明治35年)で、米国より1年早かった。いかに待ち望まれていたかが分かる。

双方の証言に耳を傾け、化学の訴訟資料を勉強したハンド判事は、「天然物であっても、製法に進歩性がある」と判決。譲吉に特許を与えました。この判決は、バイオテクノロジー関係の歴史的判例となりました。

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エピソード

08

その名はアドレナリン編

明治時代(1900-1902)

譲吉48歳まで

1897年、私は家族とともにニューヨークに移住し、アパートの半地下空間に「Takamine Laboratory」(高峰研究所)を開設し、研究を続けていました。

1899年、タカヂアスターゼの日本販売が始まった年、パーク・デイヴィス社から、「副腎ふくじんの高活性成分採取プロジェクト」に参加するように要請されました。

高活性成分とは、副腎髄質ずいしつより分泌されるホルモンの一種で、血圧上昇や止血に効果があります。動物の体から取出して使っていたのですが、安心して使える「純粋な結晶」にすることが求められていたのです。40年以上挑戦されてきましたが、成功した研究者は一人もいませんでした。

1900年2月、一人の青年が私を訪ねてきました。上中啓三うえなかけいぞう、24歳。東京衛生試験所の助手を退職し、教授の紹介状を持って自費でアメリカに来たのです。
上中は、エフェドリンの抽出で世界に知られた長井長義ながいながよし教授の助手として、抽出精製技術の指導を受けていました。

私は、彼とともに、研究所で高活性成分の抽出に取り組み、わずか5ヶ月後の7月、結晶化に成功しました。そして、この物質を「アドレナリン」と命名したのです。