民間大使として、日本とアメリカをつなぐ

譲吉は、妻キャロラインとともに民間大使としてさまざまな活動を行いました。
1904年に開催されたセントルイス万博の閉幕後には、日本館の解体費用を用意できない日本政府に代わり、譲吉が払い下げを受け、ニューヨーク郊外のメリーウォルドに移築。「松楓殿」と名付け、日米親善の社交場として活用しました。
このほか、譲吉が行った日米親善の主な活動としては、
1905年、ニッポン・クラブを創設。初代会長就任
1907年、ジャパン・ソサエティー設立。副会長就任
1911年、ニューヨーク・ハドソン河畔に国際親善の場となる邸宅を建築
1912年、ワシントン・ポトマックに桜を寄贈
1917年、日米協会設立の設立発起人となる
など、日本、アメリカ双方の人々との交流を深め、日本文化の紹介なども幅広く行っていました。

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決して発明品から離れては
いけない

譲吉は、トヨタグループの原点、豊田佐吉とも面識がありました。
経営陣との対立で自ら起こした自動織機の会社をやめることになった若き豊田佐吉は、傷心をかかえてアメリカへ旅に出ました。旅の途中、すでに世界的な科学者として名声を博していた譲吉を、幾度となく訪問します。
譲吉は、「発明家たるものは、その発明が実用化されて社会的に有用な成果が得られるまでは、決して発明品から離れてはいけない。それが発明家の責任である」と佐吉を励ましました。
トヨタ自動車75年史には、
「高峰博士の話には、佐吉としても共感するところが多々あり、その後もたびたび訪ねて懇談を重ねるうち、帰国して再起を期する自信と勇気が湧いてきた。」と、記載されています。

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エピソード

09

国際親善編

明治時代(1904) - 大正時代(1922)

譲吉67歳まで

1904年、日露にちろ戦争が勃発ぼっぱつしました。
アメリカの人々は、誰もが「ロシアが勝つ」と思っているようでした。
アメリカ人は日本のことを知らないのだと考えた私は、ニューヨークプレス紙に、紙面全体を使用した寄稿きこう記事を掲載しました。

「日本における諸科学の驚くべき発達」と題した記事は、日本人がいかに平和を愛しているかをアメリカ市民に訴えるとともに、その証として、江戸時代の鎖国から明治維新を説き、わずか30数年で科学、技術、産業をいかに発展させてきたかを伝えました。

なかでも、医学における発達の素晴らしさを記事の中心テーマにして、血清けっせい療法の発見者として世界に知られている北里柴三郎きたざとしばさぶろうの業績を取り上げました。

また、日露戦争終結後、日本の命運を背負ってポーツマスにおける日露戦争講和談判に臨む直前の全権団ぜんけんだんの集まりがありました。その時、私は、唯一の民間人として激励に参加しました。
私は、このあとも日本とアメリカの親善のために、さまざまな活動を展開するようになります。